我が心の「冷やしたぬきそば」/幻の三角橋商店街

私たちにとって余りにも身近な食『そば』。
例えば、うどん食文化圏で生まれ、そばが日常の食では無い地域に育ったという方が、そば食文化圏で暮らすようになって、初めてのそばの味を意識したという以外は、無意識のうちに過ごしているだろう。そばは子供の時から、普通に漠然と存在している食べ物だし、特別な意識などはなく、何となく食べていたというところだろう。
その時から、この瞬間から、私はそばが好きになったと、はっきりいえる人は、大概は大人になってから嗜好も確立され、様々な物を食べる経験を経て、ちょっとばかりの気取りなども出て来て、「どこそこの店」のそばを食べてからそばに目覚め、好きになったと言う人の方が、おそらくは多いと思う。

あなたは、そばを美味しいと初めてはっきりと感じた時の事、覚えていますか。

アメリカ西部の北西はユタ州、北東はコロラド州、
南西はアリゾナ州、南東はニューメキシコ州。
この広大な四つの州境が一点に交差するフォー・コーナーズ。
コロラドから我が家にホームステイに来ていた交換留学生の女の子から、その壮大な広さの中にあるたった一つの点の話を聞いた時、
「それなら東京にもスリーコーナーズがあるよ」

と、規模は大きく違えどもその『場所』の話をした思い出がある。

昭和四十年、八歳の夏。父の仕事で水戸に赴いていた我が家族は、三年ぶりに東京へ戻って来た。地方都市といえども、県庁所在地で街中に地場の百貨店が二つある「城下町の水戸」から帰って来た子供の私にはそこが、東京なのに小さな田舎の世界に思えた。ただ人情に溢れていて、人と人のつながりを子供心に感じていたし、私を可愛がってくださる人が沢山いた。
現在、その当時からすればとても想像も出来ない程にブランド化され、高級イメージを放つ『場所』にその商店街はあった。
『三角橋商店街』。
渋谷区、世田谷区、目黒区の三区が一点に交わる境。
代々木上原駅からも、東北沢駅からも、池の上駅からも、下北沢駅と駒場東大前駅からは少し距離はあるが、それぞれの駅から徒歩で数分の場所。
玉川用水の支流である三田用水に架かっていた「三角の橋」の名残りで命名されたらしい。
当時、東京の何処にでもあった昭和の商店街。
酒屋、金物屋、中華屋、銭湯、そば屋、お菓子とパンの店、食堂、床屋、魚屋、肉屋、クリーニング店、煙草屋、自転車屋、工務店、鉄工所、水道工事業、材木店、燃料店、お麩の製造所、本屋、レコード店、洋裁店、寿司店、鯛焼き屋、文具店、当時出始めたスナック。
商店街の真ん中には、東大航空研究所(現宇宙科学研究所)の古い時計塔が高くそびえ立っていた。

学区別の地区子供会の友達のほとんどが、商店の子供達だった。

 アポロ11号が月面着陸をした年の夏に、商店街にスタンドそば店が開店した。質素でそっけない店内はカウンターと椅子だけの小さな店。当時はエアコンを設置している店は少なくて、壁掛けの扇風機が回っていた。
開店したばかりのそのスタンドそば店で、まだ背の低かった私が、脚の長い高い椅子に座って、足をぶらぶらさせながら初めて食べたのが『冷やしたぬきそば』という未知の食べ物だった。
「そばって美味しい!」
私ははっきりと記憶の中でその瞬間を覚えている。
『そば』が美味しいというよりも、『そばと汁』が絡まった麺の美味しさを感じた12歳の夏休み。
揚げ玉に細切りの胡瓜と蒲鉾。皿の横にはベッタリと盛られたワサビがあった。子供だからそれまではワサビが苦手で、寿司はサビ抜きと決まっていた。初めての一人の外食だったので、大人ぶりたかったのだろう。
汁にワサビを溶きながら、揚げ玉と混ぜ合わせそばをたぐった。
揚げ玉の油とワサビの辛さが汁に混ざり、そばに絡んだその味は、刺激的でコックリとした汁の中に胡瓜の清涼感と、少し汁を吸ったそばの調和が何ともたまらなかった。
この夏は、母にねだって小銭を握りしめて昼はその店に通った。
いつも白いTシャツ姿の優しそうな若い店主さんが微笑みながら
「ボクは本当に冷やしたぬきが好きだね」
といわれた。
夏休みが終わり、しばらくすると生来の学校嫌いが高じ、今でいう「登校拒否」になった。家に引きこもっていたわけでも無いが、商店街を通る事は、友達に会いたく無い気持ちがあって避けていた。

数ヶ月後、暫くぶりに商店街を歩いてみたら、そのカウンターそば店は既に無くなっていた。

現在、「三角橋商店街」は存在しない。
バブル景気の時代に、商店街の幼馴染みの家々が、次々に流行りのDCブランドの本社や、時代の先端をいくアパレル店に、あるいはビルに変わってしまった。その後、バブル景気が崩壊した後も、この地域は人気があり土地価格は高騰して、すっかり様変わりしてしまった。今はもう、この地に商店街があった痕跡は無いし、幼馴染みはもう誰一人としてここには住んでいない。
四年ほど前に縁あって、東京・神奈川を中心に137店舗ある大きな『のれん会』の本家直系の店からメニューの改定依頼を受けた。冷やしたぬき発祥の『のれん会』と聞き及んでいた。冷やしたぬきも今回新たに作ってほしいとの要請があり、子供時代の思い出が蘇り、その想いは一入で嬉々として取り組まさせて頂いた。時は流れ、時代が移って様々なそばの種物が出てきても私は「冷やしたぬきそば」が何より好きだ。何処の店に行っても夏はこれしか頼まない。

 その後、食べた数多のそばは忘れても、あの初めて食べた『冷やしたぬき』が忘れられない。

著者紹介

蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康

<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。

感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。

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