2011年3月11日 あの夜のそばがき

その日、私はKZ市に住んでいた。

家は海岸から250m、海抜2m、夜には微かに波の音も聞こえる、築80年の古いけれどしっかりした和洋折衷の別荘建築。

自宅で午後2時頃から、翌日に行う定期のそば講習のための準備をしていた。講習当日に作る汁に使うかつお節の掃除をしてから、自宅にある削り機で節を削り終え、冷蔵庫に保存しようとドアに手をかけた瞬間、揺れを感じた。
「これ、大きい、すごく大きいぞ」

学校をサボりやっと起き出して歯を磨いていた長女に声をかけ、腕をひっつかんで家を飛び出した。隣接する広いコインパーキングに逃げ、その場にしゃがみ込んだ。止まない揺れの中、恐る恐る周りを見れば、駐車場の車が今にも車止めを飛び越えそうで、踊るように跳ねている。この世の終わりと思える揺れが、ようやく収まり、「怖い、怖い」と叫んでいた長女の顔を見ると、歯ブラシをくわえたままの口は泡だらけだった。

電気が止まりテレビとパソコンが使えず、一切の情報が入ってこない。
どこが震源地で正確な地震の規模さえ分からない。
今ならばスマホがあるが、この頃はまだ普及していなかった。
津波警報と一人暮らしの老人に対する避難勧奨が街のスピーカーから流れている。もしも津波が来たら、最悪の時には床下浸水はするのかと、廊下に置いていたカナリヤの鳥籠を食卓に移した。
災害時は、保護者引き渡しで下校させるとの通達があったことを思い出し、次女を山の方にある学校に迎えに行く。途中の商店街で、東北地方が震源地と話しているのを聞いた。地震から約1時間後の午後3時40分、持ち帰り寿司やパン屋には、既に人が列をなしていた。
何が起きているのか、わからぬままに時間が過ぎ、情報収集の手段を考えていたら、電波が悪いこのZ市では使い物にならないと、三日前に燃えないゴミの袋に捨てた手のひらサイズのラジオがまだある事を思い出した。
電池を入れ直したラジオは、弱い電波の中で雑音と共に生き返った。

けれど、その頃に起こっていたとてつもない大惨事を知る術も無かった。

『運命』はベートーベンの交響曲第5番で『ベト5』。
チャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』は『チャイ6』。
♪遠き山に陽は落ちて♪のドボルザーク交響曲第9番『新世界より』は『ドボ9』。

マーラーの交響曲第5番に副題はないが『マラ5』。

この『マラ5』は、厳粛と勇壮と耽美を持っている。そして、私にとってちょっとした想いがあった。何も考えずBGMに有線のjazzやバロックを流している店に、多少なりとも抵抗感があった。自分は、どうせならば何か主張はしたいと考えていた。さすがにそば店でマーラーは、どこでも流してはいないだろうと、一人気負って店でこの曲を鳴らした。音の強弱と音量の幅が大きく、何も聞こえないと思いきや、突然大きな音が鳴り響くので、店内のBGMには、全くそぐわない曲と知った。考えてみれば、至極当然の事なのだけれど。
それとは別に『安らぎと癒し・川のせせらぎ』を流してみた事もある。

お客様に「水漏れしていませんか」と言われ、それもやめた。

震災翌年に放映されたテレビドキュメンタリーで知った事がある。
これも『マラ5』である。
2011311日の夜、『グスタフ・マーラー/交響曲第5番嬰ハ短調』の演奏会は予定通り開演された。
会場は、東京都墨田区錦糸町にある『すみだトリフォニーホール』。
演奏は新日本フィルハーモニー楽団。
指揮は英国出身のダニエル・ハーディング氏。
人気の演目に当代評判の指揮者の組み合わせで、当日の切符1800人分は完売していたそうだ。その夜、演奏会場には105人の聴衆だけが集った。

地震の数時間後、オンタイムで津波が押し寄せる悲惨な画像を既に見たのだろうこの人々は、この夜帰宅出来ない事を承知で、様々に湧き上がり揺れ動く感情の中、その夜の演奏を真摯に受けとめる覚悟で会場に来ていたのだと思う。 

そして同じ日、同じ夜・・・ 

暗くなる前、商店街に食べ物を買いに行ったが、もう全ての店が閉まっていた。地震直後に見た人の行列を思い出し、自分の暢気さに呆れた。街灯も店の灯りも無い街は、夕陽の薄明かりで辛うじて歩けたが、家を出てわずか数分の間に、信号機が消えた交差点で車同士の接触事故を2件見た。
停電は復旧しないまま夜になった。電気制御のガスも点かない。

一切の光が無く、街中が真っ暗で静まりかえっていた。

次第に寒くなる室内を暖房する事が出来ずにいた。古い家なので、暖房無しだと床はまるで地面のように冷たくなる。
何より困ったのが、今夜の食料が無い事だった。普段から、食料の買い置きをしない習慣がこんな形で裏目に出た。
幸いに水は出る。妻が入浴時に灯すために買ってある蝋燭がある。卓上コンロには半分くらいガスが残っている。そば粉は仕事柄常備している。照明は蝋燭の小さな炎だけで暗かった。心許ない光を頼りに小鍋に水を入れ、そば粉を練ってそばがきにした。土鍋に水を張り点火、地震前に削ったかつお節を入れ、沸かしてから節を網ですくい取った。醤油と味醂に赤い缶のカレー粉を振り入れ、一つだけあった玉ねぎを薄切りにして加えた。そこへ、そばがきをちぎり入れた。『玉ねぎだけのカレー汁そばがき』が、暗い灯の中で何とか出来あがった。
やっと帰宅した妻も娘達も、珍しくそばがきを喜んで食べた。

その夜は、子供達が幼かった時の様に、四人一つ布団にくるまって寝た。

翌朝、電気が復旧したのは7時頃だった。慌ててテレビをつけた。
その時に初めて見た津波の映像に愕然とした。もしも、この惨状をオンタイムで見ていたら、果たしてこの家に留まっていただろうか。
恐怖が無かったのは、ただ現実に起こっていた事象を知らなかったからだ。

私は一晩の「昔の暮らし」を強いられただけで、文明の力で暮らしている現代人が、いかに無力であるかを実感した。いつとも起こるか分からない災害に対しての準備の怠り。津波警報の中、鳥籠を食卓に乗せる程度の自然の脅威に対する自分の無知を反省した。

それ以来、我が家では311日の夕餉に毎年、「マラ5の第4楽章アダージェット」を流し『玉ねぎだけのカレー汁』を食べている。あの日に失われた尊い命と真っ暗な夜を忘れぬ為に、これからもずっと続けていく。

 

著者紹介

蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康

<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。

感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。

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