『江戸前のそば打ち』は丸を四角に

 最近、いつものそば打ち講習会で、何だろう?歳のせいなのか、
「江戸前の打ち方はこの丸を四角くして行きます、これが四つ出しです」
「どうしてこうやるのかと言うと、そばは本来、丸を大きくして行き・・・」
説明しながら、息切れして来て・・はぁはぁ・・
あぁ、もぅ面倒臭い。
「皆さんのそばは小さい玉だから丸のままでも良いですよ〜好きにして」

そんな事じゃ、仕事無くすよ!きっと私。

『江戸前』。
この言葉は本来、江戸城の前の海を指し、江戸湾近郊で水揚げされる魚介類の事を表しています。また、上方に対して江戸風の仕事、その手法表現としても使われます。
『江戸前のそば打ち』は、基本的に麺棒を三本 使います。
長い巻棒が二本と少し短い延し棒が一本。
さて何故、江戸前のそば打ちが 麺棒を三本使うようになったのか?
それが、今回のお話。

当時、世界でも有数の人工過密都市になっていた江戸の町。主に食べられていたのは、主食の白米。何でも一日に三合から五合も食べられていたそうですから驚きです。ただ、白米中心の食生活によるビタミンB群(特にB1)不足による栄養障害いわゆる『脚気』で、手足のしびれやむくみ、体の倦怠感、情緒不安定、神経障害等々、悪化すると死んでしまうことも珍しくありませんでした。この病気は『江戸患い』と呼ばれていました。

また、裕福な人や高貴な方々が罹患する割合が多く、贅沢な生活をしているこの人々は、玄米の米糠を取る精白歩合が、庶民より高かった事に起因していたと思われています。 
そこに、江戸に出て来て間も無い、決して豊かでは無い人々がいました。

そば切り発祥の地である、主に信濃国や甲斐国をからやって来た人々。

故郷では米をなかなか食べる事も叶わず、仕方なしに食べていたそばも江戸に来れば故郷で食べていた郷愁の味。 
ただ何故か、あまり豊かでなかったこの人達は、江戸患いに罹る人が非常に少なかったのです。

この人達が好んで食べている『そば』に、どうやら「何かあるのでは」と、考えた人が多くいたのでしょう。

『そば切りといっぱ(言う物)本山宿(現在の長野県塩尻)よりいで あまねく国々にもてはやされける』と、松尾芭蕉の門人・吉井雲鈴が『蕎麦切頌』(そばきりしょう)に記している様に、江戸の町に限らず、そば切りを食する人が次第に増えて行きました。

チャッチャと食べられるこの食べ物が、特にせっかちで気短な江戸っ子の気性に合ったのか、瞬く間に江戸市井の人々に広まり、手軽に小腹を満たしてくれる『そば切り』として、大量消費される様になって行きます。そば切りの需要が高まると、過密な環境の中で効率良く生産する必要が出てきました。

そば切りは発祥の時より、『丸い麺体』を太めの麺棒一本でゴロゴロと転がし次第に丸を大きくして行き、薄く延ばしていく方法で作られて来ました。

この打ち方だと、広いそば打ち環境を持つ地方では問題ないのですが、過密都市の江戸では、丸い麺体を大きく広げる場所が確保出来ずに、円の大きさが限られてしまい、一度で多くのそばを打つ事が出来ません。

そこで、どこかの賢い職人が、丸を四角くして巻き上げながら縦方向に延していけば、一回のそば打ちで、これなら量産可能な事だと考えたのでしょう。
「ええぃ、丸じゃ手が間にあわねぇ、こちとら義経は壇ノ浦の八艘飛びでやらかすか」
と、言ったかどうかは知りませんが、八艘飛びは発想の転換か。うまい座布団一枚。
やがてこれが、江戸のそば職人の御常法と成り、江戸前のそば打ちが確立されたのです。
江戸のそば打ちが、丸から四角になって一度に多くのそばが、狭い場所でも打てる様になっていった話。

はぁー、ここはめでたし、めでたし。

練り終えたそばは鏡餅の形です。

先ず、練り上げた玉を手や棒で潰します。
最初から、次第に棒で潰すやり方もあります。

丸を大きくして行きます。これも太い麺棒をゴロンゴロンと転がすやり方もあります。

丸が大きくなって来ました。これで約80cm。麺体の厚さは3㎜見当。
まだ、厚いです。このまま丸を大きくして行くのが、そば切り発祥からの伝統の丸延し。

 

江戸前のそば打ちは角を出すために、ここから丸い麺体を巻いて行きます。
先ず、最初の角を作ります。この作業を四つ出しと言い、先ずは一本目。

 

同様に二本目を巻いてから広げます。

二本目を終えれば菱形になります。ここから三本目。

同じ様に四本目を巻いて広げると、四角になります。

四本目を終えて、丸から四角になったところで、延し棒で肉分けと粗延しを施して麺体の厚みのムラを均一になる様にならしてから、本延しに入ります。
全体を延しながら角を決めて行きます。

巻き棒で巻きながら、反転させて(この作業を振り替え)と言います。

振り替えて、手前を整えます。

巻き棒で再び巻き上げて、全体の厚さを調整して行きます。

角を出して、延し終わりです。この後、たたんで切って行きます。

当然の話ですが、そばが食べられる様になったからと言っても、江戸市中の脚気が解消されるはずも無く、明治になってからも脚気による障害は続いていました。

江戸を離れればその病がすぐに治る、と江戸の空気から来る感染の如くに伝わっていたのは、後に思えば贅沢な白米食を摂れなくなるからだったのです。

時は明治に移り、特に全国から集められた兵士を擁する軍隊では、脚気がとても深刻な病気となっていました。

細菌原因説を採る陸軍軍医総監の森林太郎(森鴎外)に対して、食習慣原因説で洋食化の推進を採る海軍軍医総監の高木兼寛との間で、脚気原因の論争が激しく闘わされました。その時点ですら、脚気の原因がビタミンに起因するとは、解明出来てはいなかったのです。

この当時は、ビタミンという存在概念も当然のごとく全く無く、ビタミンの存在は遥かに時を経た明治も最末期の1910年(明治43年)、鈴木梅太郎が米糠から「オリザニン」を抽出、これが脚気の決定的な薬となります。

また、同時期の1912年に、精米で取り除かれるコメの外皮や糠(ぬか)に注目したポーランドの生化学者、カシミール・フンクによって『ビタミン』と命名され、ビタミンB1の欠乏によって脚気になることが確定したのです。

「これから家では、お米は玄米ね」
妻が、キッパリと宣言。

一時期、我が家で妻がガチッと角が張った様な頑固玄米食主義にはまり、食卓には毎日玄米飯が出る日々がありました。
私には玄米飯は何とも硬くて、ちょっと辛くてさすがにギブアップ。
「七分撞きでも良いから、もう少し白めのご飯にしてほしい、許して」
と、懇願したところ、 
「はい、わかりました」
ありゃ、多少の言い争いも覚悟はしていた所ですが、こだわって角々と尖っていた玄米食主義の妻が、あっけない程にあっさりと承諾してくれました。
江戸前そば打ちは『丸』から『四角』への転換だったけれども、我が家のご飯は逆に角から丸く収まって。あ〜こちらもめでたし。

 

著者紹介

蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康

<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。

感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。

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