「不思議な商店街ですよ」
私の実家があるこの駅周辺の全商店中、今やこの街の最古参店になったそば店の若旦那が客に話している。
「この商店街は店が変わる度に新たに美容院が出来る、まるで美容院の街ですね」
と、屈託なく笑っている。
「それでも、やっていけるのかしらねぇ」
おそらく初めてこの駅に降り立ったお客が、美容院の多さに驚いた故の会話だろう。
隣の駅はこの沿線で新宿の次に乗降客が多い大きな街。それに比べて、この駅周辺にあるのは、昔からの小さな商店街。
店舗の数は増えもせず減りもせずだが、入れ替わり立ち替わりの繰り返し。
学生の多い駅だから、いつも駅には人が大勢いるのだけれど、街には人が少ない。
この駅の近辺にも、かつてはそば店が六軒あったけれども、今は二軒だけになってしまった。
残っている一軒が若旦那の店。私が十代の頃から親しみのある店だ。
初めて行ったのは、もう五十年前の事。
しばらくぶりにこの店に行ったのは、この店が近々閉店すると人伝に聞いたからだった。
広くて清潔な店内を持つ、それでいてふらっと気軽に入れる昔ながらのおそば屋さん。
店に入れば、じわっと鼻腔に感じるそば汁と天ぷらの柔らかな香気。
子供の頃から変わらないそば店の匂いの記憶が、いつでもそこにはあった。
この店も時代の流れなのか、五十八年間の営業を閉じ、とうとうその暖簾を下ろすらしい。
店を壊してビルでも建てるのかどうか。
建ったビルにテナントが入り、不思議な商店街にまた一つ、新しく美容院が増えるのかも知れない。
今は誰も住んでいない私の実家。立ち寄る機会が増えたのは、家の整理をする必要がある為だ。
鍵を開け、家中に入れば少しカビ臭くはなったけれど、家の匂いはまだ残っている。築五十年の家は、さすがに老朽化していてこのままでは住めない。
専門家に診てもらったところ、現在の耐震基準をクリア出来ないので、大きな地震があれば倒壊の恐れありとの事だ。となれば当然、新築建て替えの話が出て来る。ただ、私はもう若くないし、私達夫婦の次に住む人間も定まらない。
二年間の思案の末に出した結論は、土地値で売却する事。
家族と住んでいた家だから思い出も沢山ある。
片付けの最中、物を処分するのは気持ちの整理が付くけれど、自分に染み込んだ記憶の整理がなかなか付けられないでいる。
父方の祖父の家の樟脳と消毒液の匂い。 何十年間の時を隔てた今でも思い出す。地方の古い家に行くと、廊下奥にある納戸の匂いがして、祖母の家と同じ匂いを思い出し、懐かしく思う事がある。
暮らしていた時には何も感じなかったけれど、今確かに実家の匂いを感じる。
この後、家は取り壊されて形を失うけれど、私の記憶は匂いとして残って行くのだろうか。
「あそこのお米屋さん知っていた?」妻が嬉しそうに言う。さっき米を買いに出掛けて帰って来たところだ。
「古い米屋ね、米穀通帳を持って行く様な昭和三十年代そのままの店でしょう」
「あの店初めて行ったけれど、おじさんのこだわりが強くてお米の話が面白いの」
何でも、好みのご飯の味や食感を聞かれ、数種類の玄米をブレンドし精米してくれたそうだ。
「でも、あのおじさんはもしかしたら、私より若いかもよ」
妻は、その店とおじさんがいたく気に入ったらしい。
その日から我が家では、この米屋でしか買わないし、買わさしてもらえ無くなった。
数年前に、今も住んでいる高層の集合住宅に引っ越して来たばかりの頃の会話だ。
我が家の食材調達は私の担当になっている。要はお使いとお買い物係。
最初に買って来た米が、米櫃にあと数カップまで減った頃、私は初めてその米屋を訪れた。
店先の戸は全て大きく開け放たれているけれど、古い店舗には、こもった様に米糠の匂いが染み付いている。
その日は、古い店に不釣り合いなジャニス・ジョプリンの歌が流れていた。
昼の日中に馴染みのない男が、この店専用の米を入れる紙袋を持って来たので、
少し戸惑ったのか、おじさんは怪訝な顔をしていた。
見れば確かに私より10歳は若いだろう。私の方が確かなおじさんだった。
妻が何故、この人をおじさんと言うのか。その感覚が理解出来た。
俳優の吉岡秀隆に似た顔。太い黒縁メガネ。無精髭。で、服装には無頓着らしく飄々とした感じ。何より、時間から置き去りにされた様なこの古い店の中で立ち働くこの人を形容するには、おじさんが一番合っている。
私は袋を差し出して、
「先日、妻がブレンドしてもらった米を・・」
「あぁ、この前の奥さんの旦那さんかぁ、ハイハイ」
と言って、先日と同じ調合で精米してくれた。妻が言っていた面白い話は、聞けなかったけれど。
その後、月に2回から3回は店に行って米を買い、数年が経った。
馴染みになると次第に短い会話もする様になった。
BGMでは無く、おじさんが仕事をしている時に聴くために、大きな音で流している曲は、いつもちょいとシャレている。
そんなある日、いつも通りに米専用の紙袋を携えて店に行った。「実は今月で店を閉めるの、早く言えば良かったけれど、言い出しにくくて、ごめんなさい」
軽くペコリと頭を下げる。驚いた私は、訳を質した。
「ご覧の通りで家も古くなったし、ここらで建て替える事にした」
と言う。
「新しい店で続ければ良いのに、ぜひ続けてよ」
私がそう言うと、
「銀行から店はやめる様に言われたんだ、米も、もうあまり売れなくなったし」
と、ちょっとだけ悔しそうな表情を浮かべて、ふっと笑った。
「寂しくなるな、もう米は買わなくなるよ」
この古くて小さな店が無くなってしまうのかと、おじさんにとっては余計な事だろうけれど、私は少し怒ってもいた。
「米屋なら、どこか他を紹介するけれど・・うーんと・・どこが良いかな」
おじさんは、上を向いて知り合いの米屋を探している様子。
「そう言うことでは無くて・・・誰から買うかの問題で・・・」
もう次の言葉が出ない私に、おじさんは頭のタオルを取って、そして今度は、深く真っ直ぐにお辞儀をした。
数ヶ月後、店の解体が終わる頃、通りすがりに見ると店跡の裏手に、家屋が立っていた時には見えなかった土地がある。店の敷地の五倍はあろうかと思える空き地が広がっていた。
米屋さんが店をたたんでから、ちょうど丸二年がたった。
店があった場所に、竣工したばかりの白い8階建ての賃貸マンションビルが、立派な姿でそそり立っている。
裏の通りから個別のベランダを数えてみると部屋数は30室位ありそうだ。
米屋のおじさんは、今や賃貸マンションビルのオーナーさんか。
表に回ってビルの入り口を見ると館銘板があった。
近づいて見てみると町名の〇〇に冠された『LE RIZ』の文字。
フランス語で『米』の意味だと察っするまでに、時間はかからなかった。
ふと、古い店に染み付いた米糠のこもった匂いを嗅いだ気がする。
親の代から受け継いだ『物』を続けたかったのだろうな、本当はきっと。
そば屋さんの若旦那も然り。家を引継げ無かった私もまた然りだ。
匂いの記憶。それが、怒りだの嘆きを呼び起こす事は無いだろう。
今無き物への優しい感傷だけを思い起こさせてくれるなら、それが良い。
そう思う事にした。
記憶の分子達のいたずらなのかその時、私の鼻が急にツンと痛くなった。
著者紹介
蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康
<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。
感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。