そば汁の湯あみ

 

  以前まだ店をやっていた頃、通勤に往復3時間。そば打ちと仕込みに3時間。
営業時間が午前11時から午後10時まで11時間。終電で帰宅してから、入浴後に一杯飲んで食事をすると、あっという間に2時間と少し。翌朝は6時30分の電車に乗る。一日24時間から引き算すると19時間で睡眠時間は5時間しかない。なんとか、あと1時間でも寝ていたいので、どこかを削らなければと考えた。結局、削れるのは入浴時間のみ。それで風呂を10分間で済ませるようにした。
私の『烏の行水』はその頃から始まった。
 子供の頃は長風呂だった。風呂場にお気に入りのおもちゃを持込む。湯船に浸かりながら、自分で物語を作る。主役は自分で共演はお湯に浮かんだおもちゃたち。湯船から出たり入ったりを繰り返しながら、一話1時間30分の物語。
のぼせる寸前にエンドマークが出る、お決まりのワンマンショー。
長湯を心配して母が覗きにくる。
「そんなに長く入っていると、とろけますよ」
どうりで、指はおじいさんのようにシワシワになっていた。
長風呂の事を『腰抜け湯』と云うそうだ。
 
 知り合いの40代半ばの女性。飾り気は全くないが肌艶の良い若見えのする人。「その若さ何か美容法とかあるのかな」と問えば謙遜する様子も見せずに「私の若返りはサウナの水風呂」だと云う。
「火照った身体で水風呂に飛び込むと身体が引き締まった感じで爽快になる」そうですか。それが若さの秘訣だったのですか、と感心はする。サウナに蒸された後、私は足先に水をチョロリとかけるだけで水風呂に怖じける。まわりを見れば、つわもの達は水風呂にザブンと入る。何か己の人生の潔さを見せつけるようにザブンと。

  そんな私も家族に誘われてしぶしぶ、温浴施設に行く。「二時間後に食事処の『前』で待っていて」やれやれ『烏さん』には、つらい二時間だ。せっかく入館料を払っているのだもの、取り敢えずは片っ端から色々な風呂に入る。入ってはみるのだが、とてもそれぞれ3分とは入っていられない。根っからの『烏の行水』が身に染みてしまったようだ。露天風呂の脇に置いてあるベンチで休息。風に当たり程よく体を冷ましたところですかさず脱衣場へ急ぐ。入ってからまだ30分も、いや30分しか経っていない。告げられた時間まで1時間30分もある。さて、どうする『烏さん?』。過ごし方はもう決まっている。時間が来るまで食事処の『中』で何杯目かの生ビールのジョッキを空けている。はずだ。

 そば汁の最後の仕上げ方は入浴に似ている。風呂に入れたり、入らなかったり、ザブンとさせたり。大雑把にいうと三種類ある。
 先ずは、湯煎する方法。一度冷ました汁を、沸騰していない温度の湯で湯煎にかける。これを何度か繰り返し返し(回数や温度は店それぞれ)、汁の尖りを除く方法。湯煎する事で、節のクセやエグ味と醤油感を消して、素材の主張を抑える作り方。言わば汁の『腰を抜く作業』。手間はかかるが飽きのこない『深い味わい』に仕上がる。老舗といわれる店はこの汁が多い。濃い色とコクの『スタウト』タイプ。子供の頃の私の入浴みたいなものかな。
 次は、返しと出汁を合わせた後に蓋をして氷水で冷やす方法。出汁と醤油を一気に冷ます事で閉じ込める。少し尖った汁の風味を直接感じさせるのが狙いである。節と醤油の香りを表に出して、キレのあるわかり易い味わいに仕上げる。ビールでいえば『ドライ』タイプ。サウナの後のザブン、水風呂の効用みたいなものだ。

 最後は、返しと出汁を合わせた後に蓋をせず汁をそのまま放置して、自然に冷まして粗熱が取れてから冷蔵庫で冷やす。これが一番普通に行われている一般的な仕上げ方ではないかと思う。出汁と醤油の香りが程よく馴染む。生の『ドラフト』タイプ。私の烏式入浴と同じようなものだ。

 今はもう、時間に追われることも無くなった。けれど『烏の行水』は相変わらずのままだ。あまりの早風呂に妻が呆れて、
「この頃シャンプー減ってないね、ちゃんと洗っているの?」
「そりゃ、髪が少なくなったから減らないだけ」
湯に浸かり過ぎたせいでなく年齢のせいなのだろう、いつでもシワシワなおじいさんの手になっている。それでも風呂には毎日一年365日、欠かさずに入る。風呂が好きというよりは湯上がりのビールに惹かれて風呂に入っている。
 今夜も湯上がりにグィ〜とやる。入浴の楽しみはおもちゃから、しっかりとこれに変わった。

著者紹介

蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康

<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。

感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。

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