六十年前のある年に・・

照明を落とした暗い映画館。
スクリーンには、白黒のニュース映画が映っている。

「来年は、六十年に一度の丙午です。この年に生まれた女性は昔から気性が激しく、夫の命を縮めるといわれて――――

鼻をつまんだような、やけに高い女性のナレーションが響く。

――そのため出産を控える人も多く、安産祈願で有名な東京のこの神社も、今年は参拝客が少ないと宮司さんもぼやいています――

画面は、石段の前に立つ宮司の顔を映している。

「ねぇ丙午って何?」

私は、となりに座っている父に小さな声で聞いた。

言いよどむように、一瞬の間。

「迷信――つまらん迷信さ」

スクリーンから反射する光の明暗が父の顔を照らしている。
映写機のコマを刻む音が、かすかに聞こえる。

渋谷の大向通り通称大映通り。今の渋谷文化村通りにあった大映映画の封切り館。
特撮怪獣映画を観たいと、ねだって連れてきてもらったはずの私は、肝心のその映画が何だったかの記憶がまったくない。
ガメラだったのか、ギャオスだったのか、はたまた大魔神だったのか。

その時八歳の私が、鮮明に記憶しているのは、その理解できない言い伝えを取り上げた、奇妙な内容の短い白黒のニュース映画のことだけだ。

江戸時代、明暦大火の火種といわれる八百屋お七が、丙午生まれだったという伝説に端を発する迷信。

六十年前に、大騒ぎした丙午騒ぎも、もう耳にすることもなく、今やハラスメントの対象として、口にされることもない。

昭和四十一年の出生数は約1361000人で、前後の年よりおよそ50万人少なかった。
前年に新聞・テレビ・雑誌などのメディアで広く流布された丙午の影響によるものとされる。この頃の日本は、すでに高度経済成長期にあった。
現代と大きく変わらない近代的な社会へと歩みを進め、生活は電化され始め、テレビ放送と共に受像機が一般家庭に広まり、交通網も整備されつつあった時代である。何といっても、戦後の復興を世界に向けて示した東京オリンピックが開催されて二年目になっていた。

そのような状況にもかかわらず、なぜ江戸時代の迷信がこれほどまでに大きな影響力を持ち、丙午がまるでブームのように広まったのか。
この状況は、現代の社会に似ている側面がある。SNSで拡散されるいわゆるフェイクニュース。情報媒体が変化しただけだ。
その年に子供を産まない選択をしたのは、昔の迷信を進言した年配者などではなく、情報に敏感な若い人たちだったのだろう。

文化的で近代的な社会にもたらされた、大きな人口減少があった昭和のある一年。
驚くのは、令和六年の新生児が、その昭和四十一年の半分しかない今の現実である。

その頃、杉並の阿佐ヶ谷に入籍したばかりの若い夫婦が暮らし始めた。
出会いはゴーゴー喫茶。踊りがうまい夫二十三歳。その踊りだけに惚れた妻は二十二歳。若い二人にとって、巷でささやかれている来年の『迷』のことなどは、まったくい意に介さず、気にもとめないタイプだ。
けれど今年、自分たちの直面している『妊』は重い事実だった。
差し迫ってくる来年の出産に間に合わせなければと、慌てて婚姻届を出した。
生活の基盤を、必死で立てようと夫はギャンブルをやめ、光り物が好きな妻は質素に耐えた。当時、この若い夫婦が知る由もなかったことだが、十年の後に彼らは五人の子供を儲けることになる。

そして翌年、つまり昭和四十一年の春。
二人に初めての子供が生まれた。女の子だった。その子が私の妻である。

迷信――それが、本当なのかどうかは私にはわからない。

たとえ、万に一つでも丙午伝説が、事実でありえたとしても、我が妻には当てはまらない。確かに妻は仕事には厳しい面がある。喜怒哀楽を表に出さないので、冷たい印象もある。
けれど、私にとても優しくしてくれる、しっかりした妻だ。
なぜなら、私に毎日々の食事を作らせてくれる。
毎朝、持って行く弁当も作らせてくれる。
「もっと食べ易く詰め方を工夫して」と手厳しいアドバイスまで頂ける。
買い物も言いつけてくれるし、買い忘れがあると「明日は絶対に忘れないように」と、叱ってさえくれる。
当然、掃除と風呂の準備もさせてくれる。
休日となれば、昼近くまで寝ていてくれて、私にブランチ作りと、ゆっくり新聞を読む時間をくれる。

大晦日には、二人でそばを食べて年を越した。当然、作らせてもらったのは私だ。

「あなたは冷たいそばでしょ、私は温かいそばがよいから、卵でフワッととじて」
わざわざ二度手間をかけさせてもくれる。そんな優しき妻が笑顔でそばをすすってくれた。

迷信――確かにそれが、本当なのかどうかは、さて、もう私にはわからない。

 


著者紹介

蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康

<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。

感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。

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