丸眞さんのアンバサダーに就任させて頂いて数ヶ月。ずっと思っていた事があります。私のプロフィールの中には、自分がやってきた店についての記述が無い。今までプロフィールには意図的に自分の店の経歴は出さない様にお願いしていました。先日、たまたま見ていたTVで私個人にはちょっと驚いたニュースが放映されたので、この機会に少しだけお付き合い願えれば幸いです。
コロナ禍もだいぶ収まりを見せ始め、講習会も頻繁に開かれるようになり、呼んで頂く機会が増えてきました。私の講習会ではそば打ちをした後、ただ「もりそば」を食べるだけではなく、様々なそばを作って試食します。ちょっと見かけないそばを作る時もあります。そんなそばに興味を持たれた方から良くされるがこの質問。
「是非お店で食べてみたいので今度伺いたいわ」
「どこにあるのか教えてほしい」
初めて会う方が多いせいなのでしょうか。
「ありがたいのですが今はもう店はやっていないのですよ」
と、返答するとがっかりされる方もいらしてまた、こんな事も聞かれます。
「どちらで営業なさっていたのかしら」
「溝の口で教室兼店舗をやりながら赤坂見附でも店舗をやりそこをやめてから
都立大でそばカフェその後は成城で」
「あらまぁ色々なところでやられていたのね」
そう言われると本当にそうですね。人格を疑われそうです。それなりに理由があり、これは話せば長くなりますからまた別の機会に。
それぞれの店々に思いがあり、その時々に一緒に働いてくれたスタッフや
関わりのあった人々、応援してくださった方々。喜びや笑いや軋轢の中で過した
充実感は今になれば良い思い出です。
特に思い入れがあるのが『赤坂』の店。この店をやっていた時より.やめた後にお会した方のほうが多くなったので、この店の事はご存じないと思います。
『赤坂見附 蕎麦永山(えいざん)』は、こんな店でした。
所在地は『赤坂エクセル東急(旧赤坂東急ホテル)内 赤坂東急プラザ』。東京メトロ赤坂見附・永田町駅から地上に出ると目の前にどんと構えるホテル。まさに赤坂見附のランドマーク。『軍艦パジャマ』と呼ぶ人もいます。このホテルの向かって一番左端の中2階。他の店舗とは隣に繋がりも無く、入口は2階に半間だけの小さな扉。見附の交差点に飛び出したように張り出した、遠くからは良く見えるが、近くからは気が付きにくい、離れ小島のような場所でした。
(写真左下・ピンク色の塔から角の出っ張った部分) 間口半間の入り口から暗い階段を登る途中の装飾。初めて来店するお客さんには少し怖かったかも。 店内に入るとオープンカウンター席があります。
料理は手元が全て見える高さのカウンターで。そばの薬味は、ネギ切りから盛り付けまで一食ごとお見せしていました。天ぷらと大きな釜でのそば茹でも全部見えます。皆、緊張して仕事をしてました。
この店の最初のパースデザインは、某歌劇団出身大物女優の御主人によるもの。
当時、尖った感覚のデザインで時代の寵児、まさに一世風靡していました。
それ故に、この店も既成概念のそば店からは逸脱していました。 この店では、こんなそば達を打っていました。
ハンドピックで色選別した『せいろ』。 中太打ち(2mm角)の『田舎』。 『玄粒』超粗挽きで粒々のそば。これが売りでした。 『つけとろ』卵白身のメレンゲ・味醂漬けクコの実・川海苔の原藻。
赤坂のケーキ屋さんのウインドウを見てこの仕立てを思い付いたもの。 『野良汁せいろ』鴨の端肉・返しで煮た鴨つくね・炒めた野菜。 『天せいろ』活才巻き車海老。この海老は美味しいけれど、海老はもっと大きい方が嬉しいとのご要望が多く、この後はホワイト海老の大海老に変えました。 昼はそばと上記の種物(冷・温)とコースのみ。
全てのランチに付けていた『ダッタンそば茶御飯のサーモン巻き』。
[手巻き]と言うより[手間かかり]!
数が数だけにそばを打つより大変でした。 『昼のコース』そばはお好みのもので。天ぷらか鴨焼きが選べました。
議員会館が近かったので、陳情や面会に来られた方々の接待や昼食には丁度良かった様で、手頃な価格に設定していました。 夜の店内は雰囲気が変わります。分光ガラスに光が当たり、もうそば店とは思えない世界。キラッキラしてます。
赤坂見附立体交差点の光の流れ。
奥の大提灯風照明がある人気の6人掛け個室。
真正面には交差点越しに赤プリが、左にはニューオータニ。
夜の品々です。定番もありその日その時のアドリブもあり。
当時の私です。 1969年創業の『赤坂エクセル東急』は、この8月31日の朝食・チェックアウト後に全ての営業を終了するそうです。淋しい限りです。さよなら『軍艦パジャマ』さん、あなたにありがとう。
この店をやっていた当時、自分のやり方に自分自身が戸惑い迷いながら、日々過ごしていた時に、励まし応援して下さった方々。スタッフに恵まれ笑いが絶えなかった事。私のわがままを寛容に許して下さった周りの人々。全てに深く感謝しています。
「思い出の店はセピア色に霞んで今は‥‥」と言いたいところだけれど、どっこい この店は私の中で、やっぱり今でもキラッキラです!
著者紹介
蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康
<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。
感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。