蕎麦八徳

時折訪ねる昔の同僚Sの店には、『蕎麦の食べ方』から、『打っている蕎麦粉』の違いとか、『蕎麦の三たて(挽きたて・打ちたて・茹でたて)』の説明までそれこそ壁いっぱい、大きな紙に大きな字で何枚も貼ってある。
蕎麦への思いをお客さんに伝えたい気持ちは重々わかるのだけれど、
Sちゃん、ちょっとくどくない?と思ったりもする。
彼とは互いに二十代前半から同じ店での修業仲間だ。
若い時は 痩せてひょうひょうとしていた彼も今ではすっかり恰幅が良くなり貫禄がついた。
変わらないのは、笑うと覗く八重歯と斜め向こうのあっちを向いて話す仕草。
その彼は私の事をしゃがれた声で「おやじぃー」と呼ぶ。
チョイコワ風貌の親父に「おやじ」呼ばわりされたくないのだが、

こう呼ばれるにはちょっと訳がある。

先日、本棚を整理している時、たまたま取り出した昔に店で使っていた
お品書きの中からからパラリと紙切れが出てきた。
すっかり忘れていたが、これは二十数年前に姉弟子から「余っているから持って行ってあんたの店で使えば良い」と渡された物だ。
何でも、お客さんへの啓蒙とサービスを兼ねてかなり以前に、お店で配っていたという七センチ四方の小さな紙が数枚。
その紙には、縁取り枠の中に難しそうな漢詩が印刷されていた。
これは五言絶句かな?いや、句が八あるから五言律詩かな。
漢字なのでなんとなく意味はわかるのだが、あいにく漢文の素養がないので読み方がわからない。なかには『雖』など、字そのものが読めない物もある。
家に持ち帰って数日後、知り合いの習字の先生にお願いして、読み下しと読めない字を教えて頂く事にした。

今でこそネットで検索すれば、容易に調べられるのだろうけれども、ググルなんて言葉が出てくるのはその二十数年後の事。

『蕎麦八徳』

非穀美於穀 膳中備天地 器少饗応厚 雖食後能進

多食腹耗易 和湯防寒気 毎日食無飽 実是仙家食 

                                 みき々草
頂いた読み下し文にはこうあった。
「非穀美於穀」 こくにあらずして、こくよりうるわし
「膳中備天地」 ぜんちゅうに、てんちをそなえ
「器少饗応厚」 うつわすくなくして、きょうおうあつし
「雖食後能進」 しょくごといえども、すすめあたう
「多食腹耗易」 たしょくすれども、はらこなれやすく
「和湯防寒気」 ゆになごみて、かんきをふせぐ 
「毎日食無飽」 まいにちしょくすれども、あきることなし
「実是仙家食」 じつにこれ、せんけのしょく

 

『穀物ではないが穀物より美しい、お膳の中に自然の恵みがあり
器は少ないけれどもてなしは厚く、食事の後でも食べられる
たくさん食べても消化がよい、蕎麦の湯を飲めば寒さを防げる
毎日食べても飽きない、これは本当に仙人の食べ物だ』
口語に直せば簡素で解り易い。蕎麦切りの凜とした姿を表していて、
何か格好の良ささえも感じるくらいだ。
これは蕎麦讃歌であり謂わば能書きである。
中でも気に入ったのが『膳中備天地』というくだり。
なるほど『蕎麦』も『汁』も『薬味』も自然の恵みがあってこその産物。
この一つのお膳の中には地球がある、そういう事だ。
さて、この『蕎麦八徳』なる漢詩は、いつ誰が書いた物なのか?
一説に『山東京伝』作と言われているそうだが、どうもはっきりしない。
天麩羅の命名、京伝勘定という今でいう割り勘の発案者と伝わる人だから、
そうなのかも知れない。
一方で明治になってからの物とも言われているらしい。
とにかく、調べてみることにした。
その手掛かりが、漢詩の最後に小さく記された『みき々草』の文字。
二十数年前にはできなかった事が、今ならググって直ぐに調べられる。
『国立公文書館のホームページ』によれば、『みき々草』→『視聴草』で
江戸時代旗本御家人の『宮崎成身(生没不明)』が文政十三年から三十年間以上に渡り、成身が収集した文献や見聞した事柄をまとめた雑集とある。
それこそ、見たり聞いたり集めたりした社会風俗収集コレクター。

京伝説についてはハッキリしないが、すでに江戸時代に蕎麦八徳が存在していたのは、事実なようでこれは合点がいった。

暖簾をくぐって顔を出すと、いきなり「おやじぃー」のしゃがれた声。
有難い言葉で出迎えてくれたのは店主のSだ。
彼が私の事を「おやじぃー」と呼ぶ由縁は昔から「親父ギャグ」を連発していたからなんだそうだ。
「つまんないギャグ飛ばすのが 昔から好きだったよな」
「そう言えばSちゃんは 昔から能書き好きだからね」
店内には、相変わらず能書きが壁にいっぱい。
「この店の親父うるさそうとか もたもた食べていると怒鳴り飛ばされるかもしれないとお客は思っているよ」と言えば、
「いいんだよこれが俺の主義主張だから」ときた。
「ところでこれ覚えている?」と蕎麦八徳をヒラヒラと見せると
「何?それ」
「ほら昔に店で品書きに挟んでいたやつだよ」
「あぁこんなのがあったな」
「この店のくどい能書き全部剥がしてこの小さな紙一枚で済まさない?」
「品書きに挟むってこと?」
「いや八徳だけに壁に貼っとく」
「おやじぃー!それかい」
怖い親父さんが、あっちを向いて八重歯を見せて笑った。
そんな能書きの事など何も気にせず、おかまい無しにひたすら蕎麦をたぐっているお客さんの姿を思い浮かべながら、私はなんだかほっこりとした気持ちでにんまりとしてしまう。

引用:『国立公文書館』旗本御家人Ⅱ ・幕臣たちの実像

著者紹介

蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康

<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。

感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。

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