泣いた、泣けた、泣きました。葱を切った刺激で目が痛くて泣いたんじゃない。葱を切る前に泣きました。
昔々、四十数年前。私がそば修業を始めたばかりの話でございます。
店に入って一週間目で、いきなり日本橋のデパートにあった出店に行く事になりました。行くと言っても食べに行くわけじゃありません。修業ですから仕事をするわけです。
さぁ、一人で一切の仕込みをしなければならない状況。80尾の活才巻車海老の頭を取り皮を剥き、包丁を入れて延ばしておく。活きた海老ですから、身と皮が密着していて、これがなかなか剥けないのです。それが終わると40cm四方の容器いっぱいにすり鉢でおろす10本の大ぶりな大和芋。薬味の大根をおろすのは、難なくこなせましたが、量が多いのでそれなりに大変。
それでも若さってやつは、すごいですね。何とかやり超える。技術より体力と気力がありますから。ただ、そこに立ちはだかったのが、葱切りの難敵でした。
薬味の葱切りは、まな板を使わずに葱を握って包丁を振り落とす「浮かせ切り」が、店のお決まりです。目の前には3kgの葱の箱。一本を切るのに10分かかってましたから、100gの葱が30本で5時間かかる計算。もう、絶望的な量。切り終わる頃には昼過ぎの2時ですよ。昼の営業が終わっちゃう。葱を切る前からもう涙目です。
さてその浮かせ切り。どんなものかと言いますと葱一本でやればこんな感じ。立てた親指の第一関節をガイドにして、包丁を引き落とします。 一本でやっていたのでは間に合いません。5本を束ねて切ります。 決め手は包丁の研ぎ具合。砥石を傍に置いて研ぎ出しながら切って行きます。 ボウルに溜めた水に葱を落とします。 潔ぎよく引き下ろして切ります。躊躇すると刃が引っかかり逆に危険です。 ボウルを高く持ち上げて、ザルで受けて水を切ります。 切った葱を水に晒します。軽く揉みほぐします。水に晒すか晒さぬかは、お店の汁に対する考え方で変わって来ます。汁その物の風味を生かしたければ晒して匂いと葱の味を抜いてやります。汁と葱が交わった強い味わいを重視すると晒さないですね。
さて、その日は困り経てて本店に電話を入れました。冷蔵庫の上に手動の葱切り機があるから、それを使う様にと指示があり、地獄で仏の救われた気持ち。天空から降りて来た一本の蜘蛛の糸にすがりつく思いで早速、葱切り機を取出してこれで助かったと思いきや、ところがどっこい、葱を入れて廻すと切れるどころか一本につながったズタズタの葱になってしまう。おかしいなぁと思い、蓋を開けて刃を見れば茶色く錆び付いている。再び本店に電話を入れ事情を話すと、師匠が「まな板で切れば良い、何か言われたら私が良いと言ったと伝えろ」と。免罪符を頂きましたので、まな板で切っていると、そこに現れたのがうどん担当の別調理場にいる先輩。「こいつチョンボしやがって!」と怒ってる。何とか葱を切り終えて、開店に間に合わせ安心した所に、そばを切り終えた怖い店長が来ました。「お前葱も切れないんだってな、良いか見てろよ」と数本の葱を掴みます。「親指のここに包丁を当てて・・」えいっとばかりに振り下ろした包丁は葱ならぬ親指へ直行。「痛ぇ〜」と叫んでどこかに行ってしまいました。しばらくして戻って来た店長が「噴飯物だったな」と照れ笑い。二人で顔を見合わせて笑いましたけれど、店長のその指にはグルグル巻きの包帯と指サックがありました。
この話は、いつも講演で落語で言うところの「まくら」に使ってます。初めにこれを話すと皆さんの食い付きが良いので、いつもやっちゃいます。
先輩の店長、お元気でいらっしゃいますか?ネタにしてごめんなさい。
不思議なもので、プレッシャーが無くなり気が楽になった私は、翌日から葱がうまく切れる様になりました。
あなたが切った親指が痛い、昨日の朝の親指が痛い。
小指の思い出ならぬ、懐かしき「親指の思い出」でした。
著者紹介
蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康
<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。
感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。