手練れの手タレ

 

最近、ネット上で思いがけず目にする物がある。それが自分の『手』だ。そばを打っているか料理をしている画像。だから、ほとんどが手のアップ。古いものだと遥か昔の、30年前の自分の若い手だ。 

変わりそばの事を書く必要があったので、確認の意味もありコーヒーを飲みながら、気楽にネット検索していた。そこに出て来たのは、ある変わりそばを練っている画像。「あれ、この手!俺の手じゃない?」曲がりなりにも自分の身体の一部である。間違いない。「あぁ、あの時か」とこの画像にまつわる記憶が蘇る。これは確か二十数年前に、テレビニュースの取材で、『食糧難の北朝鮮で芋を麺にして食べている』と言う内容の趣旨で、芋のそばを打ってほしいとの依頼があった。頼まれれば引き受けてしまう性分だからそば打ちはした。ただ、食糧難と今打ったそばとのギャップを感じた。「ピント外れで意味ないと思う」と取材スタッフに伝えると、年配のカメラマンも私と同意見で、若いデレクターとの間で、言い争いになっている。放映されるのかと心配したが、翌日夕刻に放送されたニュース番組は、内容はともかく意外に好評で、面白かったと様々な人から連絡が入った。今回、ネットで見つけた画像は、その時ついでに打ってみせた、別の変わりそばを作っている時の物。我が名は出ていないが、紛う事無き我が『手』が出ている。

 思い返せば、自分の『手』が初めてメディアに載ったのは、三十数年前の事。師匠に手伝ってやれと命じられ、開店の助っ人に行った店の初日。クレヨンしんちゃんの幼稚園の園長似のご店主からいきなり「今日、雑誌広告の写真取りをして欲しい」と言われた。「店の宣伝用ですか?」と聞けば、「店やりながらそば教室をやるのよ、店より絶対儲かるぜ」と言う。(聞いてないよ!)と心では思ったが、広告代理店とカメラマンが来て、成り行きで撮影させられた。ご店主いわく、「募集広告出すから、応募があったらあんたがそば打ちを教えてくれ」と。(聞いてないよ!)で、すっかり困惑した私は、その晩帰宅して師匠に電話。その答えが「何でそんな所に行ったんだ、直ぐ引き上げて来い」と怒られる始末。納得いかぬままに約束だから、ひと月の間はその店を手伝って逃げて来た。話を聞いた、後輩達には「いよ、百万ドルの手タレ」と散々からかわれた。翌月、掲載された雑誌が送られて来た。ページ半分に写っている広告の『手』は、百万ドルとは言わないけれど、そこには綺麗に撮られた『手』があった。

今年、映画の仕事で、俳優さんにそば打ちを教える機会があった。初めに、俳優さんの手と私の手との間に、大きな差異があるかないかのまさに「手合わせ」をした。何回かの打ち合わせがあり、そば打ちの基本的な工程と、作業をしている時の、全身の動き方等々細かく伝えた。さすがに一人芝居の第一人者。ベテラン俳優さんだもの撮影の上では本当に打っている様に見える。ただ、アップ画像はやはり代役が必要で、別撮りで私が実際に打っている。当然、顔は映らない。久し振りで正真正銘の『手タレ』をやった。手タレ歴四十年近く、私の手はしぼんで皺が寄っている。

石川啄木は、自分の手を見つめ「我が暮らし楽にならざり」とじっと手を見て呟いた。苦労が続く暮らしの所以は、手相によるものだと、自らの手を見ていたと、それが定説らしい。若い彼は手の平の手相を見て、おのれの境遇を嘆いていた。今日、私は血管が浮き出て皺の多い自分の手を見て嘆いている。

先日の参議院選。街中のポスターの掲示板に貼られた候補者のポスター。夫婦で掲示板の前にしばしの間、立ち止まって一枚ずつじっくり見た。みんな皺の無いツルンとした微笑みの顔。「上手に修正しているね」と妻がつぶやく。あぁなるほど、これから自分の手を写真に出す時には、適当に修正すれば良いのだ。嘆く事なかれ、手練れの手タレだもの『その手』があると思った。

 著者紹介

蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康

<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。

感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。

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