十割そば讃江 / 合言葉は「タッチアンドゴー」で打とう!

日々の暮らしの中で、ふと気がつくと普通にあった身の回りの物が消え去り、それとは逆に昔には考え及ばなかった物が、今は普通に身近にある。それらの物に囲まれた生活。
以前の贅沢品が今は日常品になっていたりする。
私が浸って来た『そば暮らし人生』にもそれはある。たとえば『十割そば』だ。
昔から、つなぎを加えずそば粉だけで打つそばは、とても技術を要するものと言い伝えられて来た。
40年前の東京で、十割そばを通常のお品書きに入れている店は、ほとんど無かったと思う。
30年前あたりからごく少数の店が、十割を打ち出した。
現在、十割そばを打っている店はとても多い。

押し出し製麺機の普及も十割そばを身近な物にしたのだろう。

JR鶯谷駅の上野公園側改札口を出ると、直ぐ右側に風情のあるそば店があった。
銹刀御蕎麦処(さびがたなおんそばどころ)『天下御免の手打そば 公望荘』という店。
錆びた刀では、切れる物も切れない。だから、切れ易いそばも切れずにしっかり繋がっていると言う意味の洒落らしい。
思い返せば、この店を知ってからもう四十数年になる。
ここのお品書きに別打・「御免そば・茶そば・らん切り(卵切り)」があった。私の記憶が曖昧なのだけれど、この御免そばは生粉打ちで、当時一人前二枚三千円していた。生粉打ちは十割そばの事。
近年に店をたたまれるまでの数年は、一人前二枚三千三百円だったと思う。
作家の獅子文六が、「雑誌ミセス」に御免そばについて書いていた記憶もある。
有名な作家が記事にする位だから、その頃、やはり十割そばは貴重なそばだった事が伺われる。
当時、この店の御店主の甥御さんにあたる方に、岡田久昭氏がいらした。
この方は西川口で『手打そば匠 岡田』を営んでおられた。
この岡田師が『生粉打ち十割』のそば打ちを見せてくれる会があるという。
これも記憶が定かではないのだけれど、たしか参加費が三万円だったと覚えている。
「生粉打ち絶対見てみたい!」
と思ったが、若い私にその金額が払えるはずも無い。
参加を諦めていたのだが、ある方の御好意で
「若いのに熱心な?子に勉強させてあげる」
と言うような名目で特別に無料参加させて頂ける事になった。
実際は、体良く紛れ込ませてくれたというところだろう。
初めてお目にかかった岡田師は、五十歳見当の角刈りで歯切れの良い口調の方。

生粉打ちの木鉢仕事は水捏ね(これには驚いた)で、延しは幅出しをされていた事を覚えている。
まな板にのせた生粉打ち十割のそばを四駒(横に約13cm)切り、切ったそばの下に包丁を差し入れ、スッと持ち上げる。
そばがのった包丁を持つ右腕を少し下に傾けてから、振り上げると同時に左手の平で右腕をポンと叩き、弾みをつけると、そばがまな板の前面にまるで扇の様に広がり落ちる。
驚いている私に向かって「そば屋の遊びだよ」と言ってニカっと笑って見せた。その笑顔もそば打ちの立ち振る舞いも、難しい事をいとも簡単にやってみせる粋さも真のそば職人だった。

さて、それから数年の時が経ち、私が店長を務める事になった店の話になる。
その頃、どうしても品書きに加えたいそばがあった。
『生粉打ち十割そば』だ。
私の意識はまだ少ないながらボチボチと出始めて来た、十割を売り物にする店に向いていた。
ただ、これをメニューに加えるにはいくつかの問題があった。
当時、私達は十割そばを『湯捏ね』で打っていた。
正直に言えばそれしかやっていなかった。
湯捏ねはそばのたんぱく質を熱湯で溶かす打ち方。生地は丈夫で打ち易くなる。打ち上げたそばは、時間が経過しても安定して提供できる利点はある。反面、何よりもそばに熱湯をかけるために、冷ます必要があり、これには時間と手間がかかる。
また、一度熱を加えているので香りや風味が飛んで弱くなるのも欠点だ。
何より、他所の店ではもう『水捏ね』で打っていた。
開店準備期間中にスタッフ数名でメニューを練っている時、
「十割そばは手間がかかるし、売れなかったら無駄になる」
「ただでさえ、何種類もそばを打たなければならないのに、朝のそば打ち仕込みが増えるのは大変」
と、十割そばを打つ事への反対意見が出た。

それは私も感じてはいた。感じていたのだけれども、何としても十割はやりたい。
そんな時、後輩のIB君がボソッと
「注文を受けてから、少量を水で打てば良いじゃない」
と、呟く様に言った。

その一言に思わず膝を打つとは、まさにこの瞬間だ。
「そうか、水で打てば出来るか!」
そばを打つ話で膝を打つとは。

注文が通る、厨房から打ち場に駆け込んで、即座にそばを打ち上げて、厨房に戻りそばを茹でる。
飛行機が滑走路に一瞬車輪を接触させた後に、すぐさま離陸するイメージが頭に浮かんだ。
これ『タッチアンドゴー』だ。

その時からこの言葉が皆にとって『早打ち』の合言葉になった。

さぁ、先陣で準備の為に常駐しているIB君と私の特訓が始まった。
IB君は浅草の超多忙有名店で既に数年の経験がある。手打ちの経験は浅かったが、あっという間にそば打ちの技術を習得して行った。
体はとても細いが、陸上競技で鍛えただけあり、敏捷な動きで若手の中でも仕事の速さが抜群だった。
粉300gから500g(3人前〜5人前)を想定して、注文があってから提供までの時間を最長でも12分以内とした。粉を計り木鉢にあけて、一気に加水する。
手が抜けないのが水廻しで、これが早打ちの時間とそばの出来具合を左右するバランスの重要ポイントだ。
延しは麺体が小さいので麺線を長く取るために、横に延す幅出しの工程をすることで、縦方向の延し時間の短縮が出来た。
最短で8分以内で打てる確信が出来た。
人員は多い店だったのでIB君を含む二十代半ばの若手四名が担う事にした。
タッチアンドゴーで打とうぜ!の掛け声で準備は万端整った。
価格を通常の『せいろ』より二割高くした。高価格に設定したせいもあったのだろう。

いざ開店してみると、『生粉打ち十割そば』の注文は、日に三、四しかなかった。威勢良く「タッチアンドゴーだ、誰が打つ!」と掛け声は勇ましかったが、打つ機会が少ない分、皆自分が打ちたくてしょうがない気持ちを堪えているのが、その頃の実状だった。デパート側の要請で価格を抑えたうどんも出す事になり、こちらが売れ出すと、『生粉打ち十割そば』の注文は、日を追って次第に減って行った。

それから、また十数年が経った。
私はアマチュアそば打ち教室を主催している昔からの知り合いと、居酒屋で一献傾けていた。 
「YouTubeに、早打ちそばの動画が載っていて・・・」
言いながらスマホを操作している。
「あ、有った有った、これ見た事あります?」
差し出された小さな画面には、確かにそばを打っている様子が見えた。
「打っている人、太いおじさんだね、早打ちにそんなに意味あるのかな?」
飲んでいる時に、そば打ちなどあまり見たくない私は、ぶっきらぼうに言ってスマホを返した。
「でもねこの人早いよ、少し荒っぽいけれど、とにかく早い、よく見て」
再び渡されたスマホの画面は、私の老眼には霞んでしか見えない。暗い居酒屋の店内だから、周りを慮ったのか音声はオフになっている。
「説明をしている声とか、そば打ちの音が聞きたいの、音を上げて下さい」
面倒くさくて気の進まないスマホを渡して、音声をオンにしてもらった。
スマホから音が聞こえる、声が聞こえた。
霞んだ画面の中のそば打ち人が一瞬でわかった。
それはあのIB君の声だったから。
スマホに耳を押し当て、「注文を受けてから、少量を水で打てば良いじゃない」
ボソッと呟いたあの時の声を少し酔いがまわり出した私は探し続けた。

この夜は案の定、かなり飲み過ぎた。

十割そばを今は誰でも打つ時代。ネットで覚える人も多いそうだ。
3度目のそば打ちで十割も打てる。
皆、臆する事無く十割そばを打つ。
十割そばの価値観が薄れたのではなく、身近になっただけだと思っている。
あの時、十割そばに燃えていた自分達やタッチアンドゴーの掛け声はもう、とっくに消え去ってしまった。
時代が変わったのだから。 
けれど、しぼんでしまった夢も時を過ごしながら、形を変えて生き続けている。

現代の利器や、数多ある情報の泉の中で。

著者紹介

蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康

<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。

感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。

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