瀕死の床に臥せている小雪に順吉坊(ぼん)が聞く。
「小雪、何か食べたいのもがあるか」
小雪が、息絶え絶えにか弱い声で答える。
「そばがきが・・食べたい」
順吉の目に涙が溢れ、嗚咽しながら
「小雪、お前はこの時にもそんな・・・・」
そして小雪は、息をひき取る。
山陰地方の大地主の子息順吉と山番の娘小雪の純愛を描いた大江賢次の小説を元に数々映画化され、テレビドラマ化された作品『絶唱』。
母が毎日見ていたテレビドラマを学校から帰った私も何とは無しに見ていた。
小雪は佐々木愛さん、順吉を山本豊三さんが演じていた。と言う事を後に調べて知った。1965年の放映だったそうだ。
小雪が亡くなって、テレビを見ながら涙を流していた母にすかさず聞いた。「小雪が食べたがっていた、そばがきって何?」
「おそばの粉をお湯で練って、お餅みたいにした物、美味しく無いわよ」
「食べたい、食べたい、絶対食べたい、直ぐに食べたい」
母を促して近所の食料品店で、そば粉を買い、ついでに狼少年ケンのシールがおまけの森永ココアを買ってもらった。その店に行けば買ってもらえるのが、わかっていたから、こちらが欲しかったのが本音だけれど。
母が掻いたそばがきが出て来た。
食べ物というより物体を感じた。セメントの様だ。食べるとジャリジャリしている。香りではなくて匂い。でも、美味しいとか不味いとかを超越したこの物体の印象は今でもしっかりと、まるで数時間前に食べた様に覚えている。おそばのツルツュルとは、まったく異なる味と匂い。小雪はこれが、こんな物が食べたかったのかと思うと、子供心にとても不思議な感じがした。
食の評論家で昭和時代に有名だった植原路郎氏は、そばの蘊蓄に関して、非常なる博識の方だった。また、そばに限らず食全般に知識を豊富にお持ちの方でもあった。そばに関する書籍も数多く残されている。この方が亡くなる少し前に、ご家族が何か食べたい物がありますかと聞くと「トマトケチャップのマカロニ」と答えたそうだ。
明治生まれのこの方の記憶の奥底に子供の頃に、美味しかった物が潜んでいたのだろうと思うと、私はこの話がとても好きで納得出来るし、微笑ましく感じる。
林家三平師匠はチョココロネ。これは私の思い違いで、亡くなる間際では無く、幼少の頃からお好きなパンだったそうだ。そう言えばチョココロネ、最近見なくなったと思う。
人の味覚は3歳までに形成されると聞いた。子供の頃に「美味しい」と記憶された物は、生涯を通して美味しい物なのだろう。究極を言えば、母親の「おっぱい」なのかと。これは最後に食べたい物には、なり得ないけれども。最後に食べたいと望む物なら言えるけれども、現実は、最後に食べる物は自身では選択出来ない。いつが最後になるのかは、計り知れないから。誠に厳しく、はかないけれども、希望として最後に食べたい物を思い浮かべるのは、楽しい事だ。
順三坊が、小雪に聞く。
「小雪、何か食べたい物は・・・」
「おらぁ、・・おらぁ・・夢で見た・・・夢に出て来た・・そばがきが・」
涙にむせびながら順三が問う。
「何、こっんな時にもそばがきが食べたいのか・・小雪・・お前は・・」
「はい・・そばがきはそばがきでも・・小悪魔風の・・そばがきが・・」
「小雪、それは一体何なのだ、大丈夫か、どうした」
それは小雪から、そばがきを教えて頂いた私が、40年の時を経て作ったそば汁とバターで作る『小悪魔風そばがき』の事なのでしょうけれども。きっと。
『何故死んだ、あぁ小雪』と舟木一夫さんが歌った『絶唱』。テレビ放映の翌年1966年公開の映画のテーマ曲だから、こちらをご記憶の方も多いと思う。私たち世代なら何と言っても百恵・友和版。
私自身、最後に食べたいと思うのは、自分で作ったオムライス。作り置きして冷凍庫に入れて置き、今際の際に
「冷凍庫に入っている、オムライス解凍して食べさせて・・」
と、家族に言ってみたい。
「わけのわからないのが、あったから邪魔で捨てちゃった」
と、言われるのが落ちだろう。
やはり最後に食べる物は自身では選択出来ないのが掟なのだ。
さて、あなたは最後に何を食べたいだろうか?
著者紹介
蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康
<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。
感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。