それは数年前の、明日は大晦日という日。
私は、前年に一切の店を退いたので、この年は、数年振りに気楽な年末を過ごしていた。
厨房のカウンター内にある打ち場でそばを打っている『N』と、年越しそばの由来について話していた。
「お客さんに、何んで大晦日にそばを食べるのかって、良く聞かれるんです」
「それは、そば屋さんを儲けさせるため」
「もう、ふざけないで、年越しそばの由来って、やっぱり細く長くから、なんでしょ」
彼には語尾に『でしょ』を付ける妙な癖がある。
「そばって細くて長いかなぁ?細くて長いのなら素麺や冷麦の方が、適任じゃない」
私は好物の瓶コーラを飲みながら、カウンター越しにそば打ちを眺めている。
「まぁ、そう言えば、そばは細いけれど、そんなに長くは無いですね」
「そばは切れ易いから一年の災厄を断ち切る、それが縁起良いとも言われているよ」
「細く長く説とは、まったく真逆の切れ易いってのは、それ、おかしいでしょ」
「他にも昔、ある寺で貧しい人達に、そば餅を振る舞ったという世直しそば」
「その説は、ただ振る舞いでしょ、そば屋としては嬉しくない」
「そばの実が風雨に強いから、元気になるなんて言われてる」
「そばは、台風でぶっ倒れちゃう、それはおかしいでしょ」
「実際のところは忙しいから、そばでさっと済ましていただけかもしれないよ」
「それ、今ならカップ麺の感じでしょ」
「江戸には、そば屋がたくさんあったから、コンビニでおにぎりを買う感覚かな」
「翌日は、お節が待ってますからね、そばならすぐに腹が減るし・・でしょ」
力が入った最後の『でしょ』に、少し笑った。
『オルフェーヴル』、仏語で『金細工師』という意味の名の馬だ。
「えっ、競馬やりましたっけ?」『N』が驚いたように言う。
「やらないよ、賭け方も分からないし、競馬場には一回連れられて行っただけ」
私は今、彼にその年の三冠馬『オルフェーヴル』の話をしたところだ。
「だからさ、その馬の名前が金細工師という意味なの」
そば粉を練って団子状にして、飛び散った金粉をくっつけて集める。
そばは水に溶けるから、晒し布で包んで水で流して残った金を集めたと云う話。
「昔は金策に暮れる大晦日だもの、年越しそばはこの説が一番だよ」
言い切れぬ事柄には、諸説がありますと云う断りがあり、理屈は整ってそれぞれに説得力があると思う。 人はまた、自分の好みに合致する説を取り入れるもの。
「何かさぁ、話としての夢があるじゃない、金細工師だよ」
彼の手は休みなく、明日のためのそばを打ち続けている。
「ところでそのそば、ちょっと太目じゃないかな」
「そうですか?こんなものでしょ」
「年越しそばだよ、イメージ的に細く長くした方が・・・良いって・・」
「あれ今、それおかしいと言ってたばかりでしょ」
「イメージだよでも、そんなそばは切れ易いから、厄は確実に落とせそうだな」
「そう、人生は太く短く、男らしくでしょ」
「馬鹿言うなよ、そんな年越しそばが、ありかよって、まったく〜」
これには二人揃って、大笑いした。
『N』は高校ラグビーで「花園」に行った経歴の持ち主。
「当時、西の〇〇・東の『N』と言われて、彼は僕らにとって遠い憧れの存在だった」
同時代に高校でラグビーをやっていた人から聞いた逸話。
その後、実業団ラグビーで活躍した猛者。
ガチガチの体育会系そのままのキャラクター。猪突猛進。思い込んだら後には引かぬ熱血漢。やると決めたら進み続ける。ラガーマン精神。
そば店をやりたくて、大手通信系の会社の良いポストと収入をなげうち、人ずてに聞いただけの、私に弟子入りするのを決めたそうだ。
ある事情で一時期、行方をくらましていた私を探し、住んでいる街を調べ、駅でひたすら三日間待ち続けたそうだ。だが、会えるわけもない。私は彼の待っていた駅と同じ街にある、隣の駅に住んでいたのだから。
「少しは頭冷やして考えれば良いものを」
と、私は言った。
その後、縁があって、アシスタントをしてくれることになった。
彼にしてみれば、念願の弟子入り成就である。おとなしく言う事を聞くかと思いきや、この弟子と師匠の関係は、騎手と馬のように逆転した。もちろん私が馬である。
彼の手綱さばきに操られるように、私は彼が持つ営業才覚と、お膳立ての元、言われるままに行動するようになった。騎手が馬を上手に駆けさせるが如く、私という「気まぐれ馬」の鞍上で、馬の気質を良く知った騎手のように、献身的に私の気持ちをなだめすかし、思い切り働かせてくれた。言葉どうり馬が合ったのだろう。
この付き合い方は、その後も十数年間続き、彼が自身の店をやりながらも、私の為に次々と持って来てくれる仕事は、新鮮で大きくて、とても有り難かった。
「もっと仕事に気を入れて、しっかりやって下さいね、でしょ、師匠」
と、いつも尻にピシャリと鞭を入れられていた。
数年が経ち、コロナ禍が世界中を席巻する前年の、12月の事。
冷たく強い雨が降りしきる中、『N』が我が家に撮影用にと、たくさんの器を届けてくれた。
「まるでクリスマスプレゼントだね、御礼ににそばでもおごるよ」
彼の車で当時、話題になっているそば店に行ってみた。
家に戻ってくる頃には、もう雨はすっかり止んで、私は一人車外に出た。
きれいな雨上がりの青空に、とても大きな二重の虹がくっきりと出ていた。
虹を指差し、見るように仕草で合図した。
けれど運転席の彼は、何も見えないと両手を上に向け、肩をすくめて笑ってみせた。後続の車がいたから、車はそのまま走り去った。
大晦日はその年の締め括り。
忙しい、一年けじめの日だから、市井の人々にもそれぞれに思いがあるだろう。
特に『そば』に携わっている人ならば、尚更の事、大晦日は総決算の日だ。
年々の記憶ページが積み重なり、次第に厚く残って行く日。
私の中でも大晦日は、数十年にわたる様々な思い出がいっぱい詰まっている。
あの年は誰それと、徹夜でそばを箱詰めした。
あの年はデパートの食品売り場で、大きな声を張り上げながらそばを売った。
40度の熱が出て、ぶっ倒れそうになりながら、400人前を打ちあげた後、正月の三ヶ日は文字通りの寝正月になった事。
急な雪が降り積もり、持ち帰りそばが大余りした事もあった。
その日の夕暮れ時に突然、『N』は遠い世界へ行ってしまった。
私は騎手を失くして、当て所もなく彷徨う「空馬」になった気がした。
私の大晦日の思いに、一つ別の重さが加わった。
大晦日に年越しそばを食べる風習は、後々まで残って欲しいと思う。
庶民的な食の長い歴史の中で、由来が様々にある事が、心良い楽しさと深さを感じる。
もう一つの大晦日に、私だけの年越しそばの由来が出来た。
著者紹介
蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康
<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。
感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。