「まく」――小さな後悔と、そば屋の符牒――

春先のよく晴れた日。
「今日は少し暖かいな」と思い、いつものコートを脱いで出かける。
ところが外に出ると、思いがけず強い風が吹きはじめ、肌寒さに身をすくめることになる。 

やはり、いつもの格好で来ればよかった。と、後悔する。雨降りに備えて、いつもバッグに忍ばせている折りたたみ傘。
小さいくせに、妙にかさばって邪魔になる。
晴天の今日こそは大丈夫だろうと、ついバッグから取り出して置いて出る。
ところが、そんな日に限って空模様が変わり、駅から家までびしょ濡れになる。
帰り道、街灯の下で濡れた肩を見つめながら、 

「どうして今日に限って、置いてきてしまったのだろう」と思う。

 食事に入った店で、注文を終えたあと、ふと隣の客の皿に目がいくことがある。
「やっぱり、あちらにすればよかったな」と、心の中でつぶやく。
自分の未練がましさに呆れながらも、箸を動かしつつ、つい横目で隣を見続けている。  どれもこれも――小さな後悔。
人生とは、そんな取るに足らない後悔の積み重ねのような気がする。
ああすればよかった、こうすればもう少しうまくいったはずなのに――と思うことしきりだ。もちろん、大きな後悔も少なからずあるから、なおのこと厄介である。まったく、『後悔先に立たず』とは、よく言ったものだ。

 一年を通して、節目節目にこの小さな後悔が顔を出す。たとえば正月元旦。年の初めのめでたい日であるはずなのに、ふと昨年の出来事を思い出して、「あれをしておけばよかった」「こうすればよかった」と考えてしまう。そんなことは、本来なら前日の大晦日に思えばいいのだが、仕事柄、年末はどうしても忙しく、特に大晦日は考える暇もない。
結局、年が明けてようやく気持ちに余裕ができたところで、あれこれと反省が始まるわけだ。

四月の入学式のころにも、似たような気分になる。
別に自分が学校に通うわけではないのだが、新しいものが始まる気配が、どこか胸の奥に小さなプレッシャーをかけてくる。そして八月の終わり。夏休みが終わる頃になると、何かしら後悔めいた思いが浮かぶ。学生時代など、もう半世紀も前の話なのに不思議なものだ。
「あれもできなかった」「これもやらずじまいだった」と、子どもの頃の名残のような感情が今も消えない。特に十一月の半ばを過ぎる頃、一年の出来事をあれこれと思い返しては、夜更けに取りとめもなく考え込むことがある。ぐだぐだと、どうでもいいことを思いめぐらせながら、それでも心のどこかで、「まぁしょうがないさ」と、自分に弁解して、吹っ切れない気持ちをごまかしている。

そば屋にも、そんな人間の迷いを断ち切るような、潔い言葉がある。

昔の店には独特の通し言葉や符牒があり、今ではほとんど使われなくなったが、
私が若い頃は、まだいくつかは現役だった。
伝票など見ずに、耳で注文を聞き取り、頭の中で順番を組み立てていく。当時、年配の職人さんに聞いた話では、「まずはこの通し言葉を覚えないことには仕事にならなかった」と言っていた。

天まじり六杯かけなら、天そば二杯とかけ四杯。
まじりは二杯の意味。
天ぷらが勝って五杯かけなら、天そば三杯とかけ二杯。出物奇数のときに使う。
勝つとは、割り切れないほうが多いという意味。
天ぷらとかけで四杯なら二対二。〜と〜は同数のこと。
天つき四杯かけなら、天そば一杯にかけ三杯。つくは一杯の意である。

「鴨がついて、天ぷらとかけで四杯――はなれでもり四枚!」声が飛ぶ。
はなれとは、一緒に通すけれど前の客とは別の注文。
注文が錯綜し、調理場も熱を帯びていく。混乱するので注文は復唱しない。
湯気の中、汁の香り、そばを洗う音、包丁の音、注文の声――

汁が湧いてきて、中台(調理担当)が「ご都合」と声をかけると、釜前(茹で担当)は振りザルにそばを入れ、釜の湯にくぐらせ、手早く振る。この“ご都合”はオーライ”“準備よしという合図。言葉ひとつに、職人たちの呼吸と手のリズムがあった。

量をいう言葉もある。“斤(きん)”盛りを多く、”さくら”・“きれい”は盛りを少なくの意。“台”は麺のこと、“台変わり”は麺が変わること。

その中で、ひときわ響く一言がある。「きつねとたぬきで六杯――で、まく!」

このまくという言葉。幕を下ろす――そのままの意味だ。
一度ここで区切って、気持ちを切り替える。
さぁ、次の流れに行きますよという合図。

聞くたびに、いい言葉だなと思うし、実に潔い。
忙しさの波に押されながらも、ひと息の余白をつくってくれる。
この「まく」で、厨房の空気が整って、手も、気持ちも、少し軽くなる。

 まくという一言には、区切りと始まり、両方の息がある。

けれど、どうも自分には、この仕切りがない。
振り返ると、小さな後悔と大きな後悔をずるずると次に流れこんでしまう。
気づけば、後悔の混ざったまま、ひと続きのまくなし人生を過ごしている。今さらながら思う。この「まく」という言葉を、少し自分の中に持てたらいい。
そういう呼吸ができる人間に、なりたいものだと考えるのだが・・・それがなかなかできないでいる。心のどこかで一度幕を下ろして、新しい一手を打つべきか。そうしないと、また後悔するのではないか・・・なぁ。

「いっぺん『まくって』仕切りゃいいだけさ」と、誰かが笑った気がした。


著者紹介

蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康

<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。

感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。

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