天ぷらそば一杯 二二○円也/五十年前のそば店で

朝から生憎の雨が降っている。長い歴史のある城下町。今や東京と変わらぬ洒落た繁華街から傘を差して歩くこと30分。辿り着いたのは今はもう、寂れてしまった商店街。元は店々が立ち並んでいたであろう場所は、店に取って代わってコインパーキングばかりになっている。通りの神社の角には最近、ほとんど見かけなくなった黒色でゴツい荷台のある実用自転車と、少年憧れの的だった方向指示ウインカー付きのセミドロップ自転車が止まっていた。

 

戸惑いながら、さらに少し行った先の奥まった路地を曲がると、その店はある。

雨に濡れたせいなのか、滑りの渋い木の戸を開けて店に入る。古めかしい造作の店内に、少し黄ばんだ品書きが貼ってある。『天ぷらそば 二二○円』。店内を見回せば、時代がかったテーブルに、昔は必ず置いてあった大きい灰皿と、そっけない割り箸立て。瓢箪形の七味入れもある。

(天ぷらそばが220円?・・ざるそばぁ・・100円!・・カツ丼300円・・そんなぁ・・・)頭の中で呟く。(・・これは昔のそば屋だ・・町のそば屋・・来た事がある様な・・)懐かしさもあるが、いやそれ以上に不思議な感覚が先に立ってしまう。

入口右手には雑然としている出前用の調理場がある。店の奥をのぞくと人影も見える。どうやら、私は五十年前のそば店に迷い込んでしまったようだ。

瞬時に、五十年の時を超えた記憶が蘇る。

そばの世界に入ったばかりで、毎週23軒のそば店の食べ歩きをしていた。メモ帳をポケットに入れて、そばを食べた後、店を出てからすかさず、そばの味と印象や店の作りと価格等の諸々を書く。このノートを『そば屋巡り手帳』と言っていた。もう一方のポケットには、いつもガイドブックを入れていた。その頃は、そば屋の情報などほとんど無かった。ただ一冊、昭文社刊行の『ミニミニ文庫そば・ラーメンの店』という文庫本より小さな本があり、これだけを頼りに、店々を巡っていた。

当時、そばの価格は、東京の老舗や有名店のもりそばが、300円前後だったことを覚えている。東京の町のそば店は200〜230円くらいだったろうか。『神田やぶそば』や須田町の『まつや』で300円、『並木藪』が少し高くて350円だったか。ここの辛汁は現在より、しょっぱかった気がする。手打ちの店が少なかったから、大概、手打ちをしている店は、それを売りにして高かった。練馬豊玉『田中屋』は450円もした。友人の家が近所にあって、良く行った西荻の『やぶそば』は350円で値も良かったが、町のそば屋とは趣を異にした風情が良かった。同じ西荻にあった『つるや』は、その頃の手打ち店としては安い280円だった。西荻から少し歩いた『本むら庵』。あやふやながら価格は350円だったと思う。値があやふやなわりに量の少なさは、はっきりと憶えている。もりそば一枚の価格は最低時給とほぼ同じで、バイトの時給が300円前後の時代だった。

今、東京都では最低時給が1.163円(令和7年現在)の時代。果たして、もりそば一枚をこの時給と同じくらいの価格を付けて商っている店が、どれほどあろうか。恐らく、ほんの一握りの店だけだろう。そばを売る店の側に立てば、原材料の高騰と人件費で、もりそば一枚が最低時給と同じくらいの価格にしたいはずだ。一方、そばを食べるお客の側に立てば、もりそば一枚が1.200円となると、そう手軽にそばも食べられない。多分、そば一枚で冗談じゃないと思うだのが人情だろう。そばの価格が上がれば良いのか、はたまた、給与が上がれば良いのか。何が適正な価格なのだろうか? と思う。

そばの食べ歩きをしている頃の自分を思い返せば、そばが美味しいからとか、好きだからというわけでは無く、何より「お勉強、お勉強」と言いつつ、そば店に行く事自体を楽しんでいた。だから、価格には全く無頓着に食べ歩いていた。ただ、1時間働けば、もりそばを一枚食べられる!時給とそば価格の相関関係の意識は持っていた。意外に街のそば店、普段使いの近所の店の価格を覚えていない。値を気にせずに、食べられるくらいの価格であったからなのか。それ程に昔、そば店は今よりずっと気軽で身近にあった。その『昔』は、『十年が一昔』なら、もう『五昔』にもなるのだが・・・・

「あれ、歩いて来られたんですか!」背後から声をかけられ、我に返った。

「迎えの車を用意してあったのですけれど」監督助手のH君の声だ。

彼とは東京での打ち合わせで、成城のスタジオで何度も顔を合わせている。

「うん、ちょっと街の様子が見たくて、歩いて来たんだ」

「雨の中、お疲れ様です、何かボウっとされていたけど大丈夫ですか?」

「ああ何でもないよ、もう、こんなに小道具のセットしてあるんだね」

「ええ、小道具さん達は一昨日から準備していますから」

「いやいや、実に良く出来ているからさぁ、ちょっと驚いて、一瞬見とれてしまったよ」

「でも、この天ぷらそば220円は、少し安過ぎはしないかい?」

「地方の都市だし、庶民的なこの店が実際に営業していた当時の価格を参考にしたそうです」

「あぁ、それなら納得・・・」感覚のズレに少しばかり拍子抜けした。

ここは『映画の撮影現場』だ。実を言えば、私は『そば指導』の為にこの場所に来た。作品名は『FUJIKO』。来年度のカンヌ映画祭出品予定の作品。この城下町に暮らす若いシングルマザーが、閉塞的な世間から意を決して、東京に出て行く迄を描く物語。映画の時代設定は、昭和五十年代の初頭。物語の主題の一つが、このそば店を起点にして廻るので、そばが重要な役割を担っている。

黄ばんだ品書きも、道端の古い自転車も、開けにくい渋い戸も、全てが映画の小道具という訳だ。店はセットを組んだのではなく、原作に出て来る実際の店舗を使う。作られた古さでは無い、本当の古さに、私はすっかり幻惑された様だ。

「疲れましたか?」制作主任のTさんの声で再び我に返った。

そばの価格を考えていた私は、まだその場に佇んでいた。

「何せスタッフ50人いますから、ざわざわしていてすいません」

「いや大丈夫、ところでもう雨は止んだのかな?外の空気が吸いたくなったので」

傍にいたセカンド監督助手の若いS君が答える。

「はーい、もう止んでいまーす、天気が良くなって撮影の進行がはかどりまーす」

開けたままにしてある滑りの渋い戸から、屋外に踏み出すともう陽が差し出している。忙しそうに立ち働く大勢のスタッフの間を抜けて、俳優さん達のメイクや衣装替えの為に借り切った近所にある神社の社務所に向かって歩く。そこに打ち場を設置して、撮影用のそばを打つ手筈になっている。撮影現場からそば打ち場に向かう途中の道で、すれ違い様に行き交う俳優さんやスタッフが、ニッコりと手を振ってくれる。

明るくなった空を仰ぎ見ていたら、頭の中を五十年前に食べ歩いたそば屋の一軒一軒が、走馬灯の様に駆け巡って行く。そばを知りたくて夢中だった頃の純情と、過ぎ去った長い時間の切なさ。それにもまして今日、自分がここにいる事に、少しばかりの感傷が胸に広がる。

これから始まる撮影に向けて数日間、打ったばかりのそばが、五十年前のそばを演じる。『天ぷらそば 二二○円』也のそばを。さぁ力を抜いて深呼吸をしよう。思い切り深く息を吸い込んで。ふぉわーと勢い良く吐き出そう。遠い昔の五十年前のそば店に思いを馳せながら。

 著者紹介

蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康

<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。

感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。

記事一覧に戻る