
照明を落とした暗い映画館。
スクリーンには、白黒のニュース映画が映っている。
「来年は、六十年に一度の丙午です。この年に産まれた女性は、昔から気性が激しく、夫の命を縮めるといわれ、夫を食い――――」
鼻をつまんだような、やけに高い女性のナレーションが響く。
「――そのため出産を控える人も多く、安産祈願で有名な東京のこの神社も、今年は参拝客が少ないと宮司さんもぼやいています――」
画面は、石段の前に立つ宮司の顔を映している。
「ねぇ丙午って何?」
私は、となりに座っている父に小さな声で聞いた。
言いよどむように、一瞬の間。
「迷信――つまらん迷信さ――」
スクリーンから反射する明暗の光が父の顔を照らしている。
映写機のコマを刻む音が、かすかに聞こえる。
渋谷の大向通り通称大映通り。今の渋谷文化村通りにあった大映映画の封切り館。
特撮映画を観たいと、ねだって連れてきてもらったはずの私は、肝心のその映画が何だったかの記憶がまったくない。
ガメラだったのか、ギャオスだったのか、はたまた大魔神だったのか。
ただ、理解できない言い伝えを取り上げた、奇妙な内容の短い白黒のニュース映画だけは、今でも鮮明に記憶している。
私は八歳だった。
その頃、東京杉並の阿佐ヶ谷に入籍したばかりの若い夫婦が暮らし始めた。
出会いはゴーゴー喫茶。踊りがうまい夫は二十三歳。その踊りだけに惚れた妻は二十二歳。若い二人にとって、巷でささやかれている来年の『迷信』のことなどは、まったくい意に介さず、そもそも何も気にもとめないタイプだった。
けれど今年、自分たちが直面している『妊娠』は目の前の現実だった。
差し迫ってくる来年の出産に、間に合わせなければと慌てて婚姻届を出した。
自由気ままに若さを謳歌していた今までの二人は、親になる生活の重さを感じていた。
暮らしがあるから、子供は一人で我慢しようと夫婦で話し合い誓った。
世間の迷信騒ぎも、他人事とも思えなくなり、多少は気になり始めていた。
生活の基盤をきちんと立てようと、小賭博好きの夫はパチンコと競輪をやめ、
光り物が好きな妻は、飾ることをやめ質素に耐えた。
そして翌年、――つまり昭和四十一年の春。
子供が産まれた。女の子だった。
江戸時代、明暦大火の火種といわれる八百屋お七が、丙午生まれだったという伝説に端を発する迷信。
昭和四十一年の出生数は約136万1000人に留まり、前後の年よりおよそ50万人も少なかった。
前年に新聞・テレビ・雑誌などのメディアで広く流布された丙午の影響によるものとされる。この頃の日本は、すでに高度経済成長期にあった。
現代と大きく変わらない近代的な社会へと歩みを進め、生活は電化され始め、テレビ放送と共に受像機が一般家庭に広まり、交通網も整備されつつあった時代である。何といっても、戦後の復興を世界に向けて示した東京オリンピックが開催されてから二年目を過ぎていた。
そのような状況にもかかわらず、なぜ江戸時代の迷信がこれほどまでに大きな影響力を持ち、丙午がまるでブームのように広まったのか。この状況は、現代の社会に似ている側面がある。SNSで拡散されるいわゆるフェイクニュース。
その情報媒体が変化しただけだ。
その年に子供を産まない選択をしたのは、昔の迷信を進言した年配者などではなく、現在と同様に情報に、より敏感な反応をする、若い人たちだったのだろう。
迷信――。それが本当かどうかは、私にはわからない。
八歳の時に見た白黒のニュース映画。あれから六十年がたった。
大騒ぎした丙午の迷信も、もう耳にすることもなく、
今やハラスメントの対象として、口にされることもない。
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たとえ、万に一つでも丙午の言い伝えが実際に事実、あったとしても・・・・
その人は、仕事と仕事に関わる人に、きびしい面がある。
喜怒哀楽をあまり表に出さないところがあるので、クールなイメージを持たれる。
家で鼻歌を歌うことはなく、テレビを見て大きな声を立てて笑ったりしない。
人前で泣かないし、怒ることもない。
けれどその人は、とても優しいところも持ち合わせていて、とても気丈だ。
なぜなら、日々の食事を作らせてくれる。
毎朝、持って行く弁当も作らせてくれる。
「もっと食べ易く詰め方を工夫して」と手厳しいアドバイスまでくれる。
買い物も言いつけてくれるし、買い忘れがあると「明日は絶対に忘れないように」と、叱ってさえくれる。
当然、掃除と風呂の準備もさせてくれる。
休日となれば、昼近くまで静かに寝ていてくれるので、ブランチ作りは、
余裕で用意ができて、ゆっくり新聞を読む時間を与えてくれる。
先の大晦日には、その人とそばを食べて年を越した。当然、作らせてもらった。
「あなたは冷たいそばでしょ、私は温かいそばがよいから、卵でフワッととじて」
わざわざ二度手間まで、かけさせてくれる。
笑みを浮かべて、すぅっとそばをすすってくれた。
その人は、六十年前に阿佐ヶ谷で産まれた。あの女の子だ。――私の妻である。
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驚くことに令和六年の最新のデータでは、新生児が大減少した昭和四十一年の半分しか生まれていない現実である。
文化的で近代的な社会にもたらされた、たかが迷信で大きな人口減少があったある一年を思うと、それはまだこの国が成長していた証だったのかもしれない。
迷信――。子供が産まれなくなった現代のこの国に、もう迷信など存在はしない。
それだけは、私も確かにわかってきている。
子供は一人だけと誓い合ったあの若い夫婦は、後の十年間に五人の子供を儲けた。

著者紹介

蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康
<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。
感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。