予選不通過

       

       万物は流転する。

           同じ川には二度入る事は出来ない。 ヘラクレイトス

ゴルフのクラブを握ったことがありません。
テニスラケットを振ったことも無いのです。
スキーは滑る以前に、宙に浮くリフトの揺れと高さを思って諦めました。高所恐怖症なのです。
まったく泳げません。海のそばに住んでいた時、散歩で立ち寄る波打ち際でも、足の親指の爪すら、水に触れることはありませんでした。
「筋金入りのかなづち」の私にとって、マリンスポーツは、まさに命の危機。地獄への入り口を想像させます。
何故だか、かけっこはクラスで一番速かったのです。が、走り終わるといつも必ずひどく脚が『つって』しまいます。母譲りの扁平足の祟り。スピードはあっても持続性がない、わが人生と同じです。サッカーも陸上もあきらめました。
それでも、少年野球のチームに属していました。しかも立派にレギュラーでした。
そのチームそもそもメンバーが9人しかいなかったのです。ライトで8番でした。
そんな理由で、子どもの頃からスポーツとは、てっきり縁がありませんでした。
大人になってからも、スポーツをすることや観戦にも興味はなく、テレビの中継もほとんど見ることはありませんでした。
その私も前期高齢者になり、動きの鈍くなった身体の衰えを、意識しはじめた頃から、若い選手たちの躍動が、やけにまぶしく見え、すっかり魅かれるようになりました。自分にはなかったもの、いや、あったかもしれないけれど、気づかぬうちに過ぎさってしまったものを、彼らは全力で発光させています。
気がつけば、テレビの前で足を止めて、見入っている。あれほど素通りしていたスポーツ中継を観戦する楽しみを覚えました。
毎朝、スポーツ番組をチェックするのが、私の習慣になっています。
時が過ぎれば、人は変わります。今、私がスポーツ観戦をしているくらいですから。

先日開催されていた、イタリア・ミラノ・コルティナ冬季オリンピック・パラリンピック大会。
時差のある放送時間に苦労しながらも、私は連日テレビ画面にかじりついて競技を見ていました。
冬季オリンピックをこれほど真剣に見たのは、二十八年前の一九九八年長野大会以来です。
その中で、「おや、何か違う」とふと引っかかる競技がありました。
スキー競技のモーグルです。
起伏の激しい斜面を滑り降りながら、ターン、ジャンプ、スピードを競う種目です。
長野大会で初めて目にしたときの記憶が、かすかに残っています。当時の私は、正直に言えば競技そのものよりも、上村愛子選手の笑顔に惹かれて画面を追っていました。そんな見方ではありましたが、それでもモーグルという競技の印象は、荒れた雪面のコブをスピードに乗って、コブの衝撃を乗り越えて、タイムを競う競技と記憶に残っています。
ところが今回目にしたモーグルは、まるで別の競技のようでした。
整備された雪面のコブを強く抑え込みながら滑り降りる力強さ。アクロバティックでスリリングなエアと呼ばれるジャンプ。そして息をのむほどのスピード感と迫力。
記憶の中のモーグルでは、ジャンプで軽やかに手足を広げたり、体をひねったりしていたように思います。大技といえば、一回転の宙返りがあったのでしょうか。
そこでは、ミスなく、美しく、正確に滑りきる事が重んじられていた──そんな印象があります。
「これは本当に、あのモーグルなのだろうか」
同じ名前の競技を見ているはずなのに、どこか腑に落ちない感覚が残りました。
気持ちのざらつきを収めたくて、私はAIに尋ねてみました。返ってきた答えは明快でした。
──端的に言えば、すでに別の競技レベルに進化している。かつてのトップ選手が当時のスタイルのままで今の大会に臨めば、予選通過すら難しいだろう。採点基準そのものが大きく変わったのだ──
なるほど、と胸の中で何かがほどけました。
三十年近い歳月が流れています。変わらないはずがありません。万物は流転する──その言葉が、すとんと腑に落ちました。

そして、ふと思い至ります。
「そば作りも、また然りではないか」と。
この三十年で、そばを取り巻く環境も、技も、考え方も、大きく変わってきました。
モーグルを見て覚えたあの違和感は、単なる競技の変化への驚きではなかったのだと思います。
同じものが、いつの間にか別のものへと変わっている。
その変化──いや進化を、どこかで受け止めきれずにいる自分がいたのかもしれません。
亡くなった師匠が開いていた教室を、新たに再開できるめどが立ったのは、ちょうど長野オリンピックが開催された頃でした。
振り返れば、それ以前の三十年間、私の属した一派の手打ち技術は、手打ちそばの世界において先駆けとして、ひとつ抜きん出た存在だったと思います。
さらにその後の十年は、手打ちそばブームの追い風もあり、その技術と名は広く知られていました。
手打ちのそばは、商いとして確かな力を持っていました。
せいろ、田舎、さらしな、そして変わりそば──それらが打てれば、それで十分とされていました。
種物であれば、天ぷら、鴨、とろろ。
冷たいものと温かいもので、それぞれ三種、合わせて六品ほど揃えれば事足りる、そういう時代でした。
手打ちでありさえすれば、お客様は来てくださる。
だからこそ、そば打ちの技術を磨き、人より良いそばを打つことが何よりも大切なのだ。──そう教え、伝えて、また自分自身も信じていました。
それは、あの当時においては、決して間違いではなかったと思っています。

けれども今は、少し違います。
技術だけでは届かないものがあることを、私はこの三十年の中で知りました。
そばの味わいはもちろんのこと、店の佇まい、空気、もてなし、そしてその一杯に込められた考え方。そうしたものすべてが合わさって、ようやく人の心に残る一杯になるのだと思うのです。
変わってはいけないものがある一方で、変わらなければならないものもある。
その見極めこそが、いま自分に問われていることなのかもしれません。
かつて教わり、信じてきたものを土台にしながらも、時代の流れの中で、自分なりの答えを探していく。
モーグルの斜面を滑り降りる選手たちの姿を思い出しながら、そんなことを考えました。

新たなそば店が次々に現れ、これまで自分が持っていた「そば店」のイメージは、少しずつ変わってきています。
若い人たちは自らの感性で挑み、心あるベテランもまた、そこに安住することなく競い合いながら前へ進んでいます。
それは、そばの世界にとって実に力強く、頼もしいことだと思います。
そうであってこそ、これから先の時代にも、そばは生き残っていけるのでしょう。
かつてのモーグル競技が、まるで別のレベルへと進化したように。
ただ、本音を言えば──ほんの少しだけ、淋しさもあります。
どこかに、古い自分が置き去りにされたような気がするのです。
けれども、そんなことで自分を老け込ませるには、まだ早いのでしょう。
これからでも、追いつき、追い越すつもりで、一念発起してみようかと思います。

──“水は、決してそこにとどまらず人の心も身体も朝と夜で変わっている同じ川には二度入る事は出来ない──

古い自分では、予選落ちするかもしれない、怖さも確かにあります。
それでも私は、もう一度、変化し進化しながら、そばと向き合ってみようと思っています。

 

著者紹介

蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康

<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。

感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。

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