
日本全国の寺社仏閣で、威風堂々と山門を護る「金剛力士像」。 あの迫力ある阿吽の双璧を前にすると、誰もが息をのむ……はずなのですが、私は違います。
あの恐ろしい強面(こわもて)を見るたび、私の脳裏に浮かぶのは――なんと「そば屋さん」なのです。
「寺の門番と、そば屋に一体なんの関係が?」 そう首をかしげたあなた、大正解。
ですがこれ、ただの思いつきではありません。昔のそば屋に実在した、ある「職制(役職)」を知ると、あの仁王様が急に愛おしく見えてくるから不思議です。
なぜ金剛力士像がそば屋に化けるのか? ちょっと粋で面白いその真相、少しだけお付き合いいただけますか?
昔のそば店は、大人数のスタッフが息の合ったチームワークで店を回す、ちょっとした「厨房テーマパーク」のような場所でした。いや、私がそこにいたわけではありませんから、正確には『場所だったそうです』。そこには今では珍しい、職制(それぞれの持ち場と役割)がたくさんあったのです。その呼称は、今のそば店に残っている物もいくつかあります。
まずは、どんなポジションがあったのかをざっーと見てみましょう。
- 板前(いたまえ)板前はそばを打ちます。花形だもの頑張ります。
- 運転(うんてん)機械打ちになり板前は運転になりました。ドライバーだ。今なら製麺オペレーターだね、格好良くない。
- 天台(てんだい)天ぷらを揚げます。そばで見ると叱られます「何、見てんだい!」ってね。
- まごつきこちらは新入り・見習い。薬味を用意したり、汁回しで徳利に汁を注いだりと大忙し。薬味付けやそばつゆ入れは、現代でもけっこう大変。
- 大まごつき(おおまごつき)一見頼りなさそうな名前ですが、実はどのポジションも完璧にこなせるオールラウンダーなベテラン助っ人です。
- 花番(はなばん)接客担当。接客の顔となる店の端(はな)にいるから、きれいに花番。
- 担ぎ・外番(かつぎ・そとばん)看板役の外番(担ぎ)が街中への出前へと走ります。何段にも積まれた「出物」を肩に担いで自転車に乗る姿は、勇猛果敢。まさにアスリートです。今なら、青切符切られますけれど。
- 脇釜(わきがま)釜前(メインの茹で担当)のすぐ隣でサポートを行う、釜の右腕ポジション。次に茹でるそばを用意したり、茹ったそばを盛り付けるサブの釜前。
- 下釜(したがま)釜の「火」と「お湯」のコンディションを管理する土台役。燃料がガスになる以前は、難しくて重要な役目でした。
- 上下(うえした)2階(打ち場)と1階(厨房・釜前)の縦のラインをつなぎ、物流と工程をスムーズにするバランサー。大型のそば屋ならではのポジション。
- 釜前(かままえ)そばを茹であげ、水で洗い、熱いそばは振りザルで温め、冷たいそばを盛りつける全体の司令塔。
- 中台(なかだい)つゆや具材を準備し、料理全体を完璧なタイミングで完成させる調理のまとめ役このように細かい役割分担が厨房のスピード感を支えていました。
数あるポジションのなかでも、そば店の心臓部といえるのが、釜前と中台です。野球で言えば投手と捕手のバッテリー。極上のそばをつくる、二人の連携は見事なまでにドラマチックです。つゆがフツフツと湧き立つ絶妙な機を捉え、中台が「ご都合です!」と合図を送る。
間髪入れずに釜前が「そば入ります!」と受け止め、一気にそばを釜へ。
威勢のいい掛け合いで始まるこの二人も、年月を重ねるごとに熟成されていきます。 もう、言葉はいりません。
視線やちょっとした身のこなしだけで、相手の次の動線が手に取るように見えてくるのです。もはや声すら投げ合わず、互いの気配だけで完璧な一杯を紡ぎ出していく。まさに、仁王様も顔負けの「阿吽の呼吸」です。
私のお弟子さんに、小さなカウンターだけのお店を営んでいるご夫婦がいます。狭いカウンターの中で、言葉もなくスッとお互いの身体をひねってすれ違う。
ご主人がそばを茹で上げる絶妙なタイミングで、奥さんはピッタリ天ぷらを揚げてつゆを用意する。その見事な連携プレイには、思わず拍手したくなるほどです。ご主人のニコニコ笑顔と奥さんの明るく愛嬌たっぷりの接客。
人気の理由も大納得の名コンビです。
先日、そのご主人と会合でご一緒する機会がありました。
しばらく会っていなかった彼に、私は労いのつもりで声をかけました。
「開店して、もう二十年くらいになるのかな、早いものだね」
「そうですね、すっかり慣れました」
「いやぁ、それにしても息がピッタリだよね。言葉なしで阿吽の呼吸じゃない」
「あぁ、う〜ん……まあ、家でもそうですからね」
「えっ、家でも?」
「ええ。家に帰っても、な〜んにも喋りませんから」
……あ、なるほど。喋らなくても伝わる……というか……究極の省エネモード。
聞かなければ良かったな、阿吽もねぇと、心の中でそっとつぶやきました。
さて、何も「阿吽(あうん)」の呼吸を見せるのは、仁王様ばかりではありません。
神社を守る狛犬も、沖縄の屋根に立つシーサーも、みんな仲良くペアを組む一対の「阿吽」です。
もっとも、日常で狛犬の置物にお目にかかる機会は滅多にありませんが、沖縄旅行のお土産として、愛くるしいシーサーの置物を買って帰る人は多いようです。
……と、ここで我が家の棚に目をやって、私は首をかしげました。
土産でいただいた大小ふたつのシーサー。なんと、どちらも口をぐわっと開けた「阿」なのです。
一度気になり出すと、人間の目というのは恐ろしいもので、探り出します。
他所のお宅にお邪魔して玄関やリビングの置物をチェックしてみると、出てくるわ出てくるわ、見事なまでに口を開けた「阿」の単体ラッシュ!
……いやいや、元々は「吽」とセットで売られていたはずです。ぎゅっと口を結んだ「吽」より、アングリと口を広げた「阿」の方がほっこりとした愛嬌があって可愛いから、そっちだけ残されたのか、それだけしか買わなかったのでしょうか。それとも、もう片方の「吽」はどこかへ家出してしまったのでしょうか。
理由はどうあれ、縁起物であり「決まり物」なのですから、そこはぜひ「対」で揃えて飾ってほしいところです。
このまま「阿」ばかりが世に溢れていたら……それこそ仁王様だって呆れて、開いた口が塞がらなくなってしまいます。
山門の金剛仁王像を見ると、そば屋さんの釜前と中台の、阿吽の呼吸を思い出すというそんな話。

著者紹介
蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康
<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。21歳でそば打ちの世界に入り、片倉康雄・英晴父子に師事して、そば打ちの基本を学ぶ。その後、手打ちそば教室の主任講師などを務め、2004年に「永山塾」を開塾。長年にわたり研鑽を重ねたそば打ちの技術と、独自のそば料理を多くの人に伝えている。その感性豊かで繊細なそば打ちと、独創的で洗練された幅広いそば料理の指導、さらにユーモアあふれる講習や、軽い語り口によるエッセイが、プロ・アマを問わず多くのファンを魅了している。近年は、そば関連企業とのメニュー開発や個人そば店への技術指導など、多方面で活躍している。