トンボの遺伝子

今朝、出がけに玄関の扉を開けると、通路の外壁に一匹のトンボがとまっていた。
「やあ、また今年も来たんだね」私は嬉しくなって、そう声をかけた。
ここはマンションの11階。近隣の高層住宅の間を通り抜ける風は、いつも強く吹いている。
トンボは風に揺られながらも、壁に足を引っ掛けてしがみ付いている。
毎年、不思議なことに、同じ種類のトンボが同じ場所にやって来る。
もちろん、毎年同じ個体であるはずはない。それは十分にわかっている。
それなのに、まるで祖先から受け継いだ何かに導かれるように、とまる位置まで寸分違わない。
こちらがすぐそばまで近寄ってのぞき込んでも、いたずら心で指をくるくる回し、目を回させるようにしても、一向に動じる気配がない。
ただじっと、その場所にとどまり続けている。そこには「オレがここにいる」、「眼に入る範囲はオレの陣地だ」という確かな意志でもあるかのような落ち着きがある。
祖先から受け継がれた遺伝子がそうさせるのか、はたまた人にはまだ知り得ない記憶のようなものが、引き継がれているのか。
毎年このトンボを見るたびに、「しばらくはこの場所で眼を見張れ」、そして「縄張りはここで守れ」と、遠い昔から受け継がれてきた司令が、働いているような思いを持つ。

仕事でお付き合いのある方々は、代々そばを商ってきた二代目、三代目、あるいはもっと昔から暖簾を守り続けてきた家の方ばかりだ。食材や器材を扱う商社の社長さんたちも、やはり二代目、三代目が多い。
皆さんに共通しているのは、商いに対する並々ならぬ情熱である。親や祖父の代から受け継いだ生業を、どうすればもっと良くできるか。どうすれば次の世代へ胸を張って渡せるか。そのことをいつも考え、前へ前へと進んでいる。
そんな姿を間近で見ていると、私はいつも、何となく少し気後れしてしまう。
「この違いは何だろう」考えているうちに、ふと頭にこんな思いが浮かんだ。
「遺伝子なのかもしれない」もちろん、本当に遺伝子の話ではない。
ただ、代々受け継がれてきた商いへの覚悟や責任感が、彼らには、まるで遺伝子のように体の中へ受け継がれている。そんな気がするのである。

「あんたはいいよなぁ。嫌になったら、さっさと店を辞められるから」
そう言ったのは、親しくして下さった和食界の大御所だ。テレビの料理番組でも知られた名店の三代目である。
そう言われると、私には返す言葉がない。そのとおりなのだ。
私は暖簾を継いだわけではない。代々続く店を守る責任もなければ、家業を背負っているわけでもない。そばは、自分の意思だけで始めた。だから、続けるのも辞めるのも、本来は自分一人の決断で済む。確かにお気楽なのだ。
一方で、店の跡取りは違う。店には先代から受け継いだ歴史があり、家族や従業員、長年通ってくださるお客様がいる。自分一人の都合で暖簾を下ろすわけにはいかない。
その重みを思えば、「あんたはいいよなぁ」と大笑いしながらいう一言には、冗談まじりでありながらも、とても重い本音がにじんでいたのだと思う。
笑っていたのは、『つきぢ田村』の故・田村隆氏である。

毎年同じ場所に現れるトンボを見ているわずかな時間に、「受け継ぐ」という言葉が浮かんだ。なぜそこへ戻るのか、本人にも説明できない。それでも気がつけば同じ場所に立っている。
人間も案外そうなのかもしれない。誰に教えられなくても、幼い頃から店の空気や香りの中で育ち、いつの間にか商売人の勘を身につけている。まるで遺伝子の中に、そば屋が住みついているようだ。
それに比べると、遺伝子を持っていない私は店をやったりやめたりで、どうやらトンボはトンボでも、極楽トンボということなのだろう。こりゃ、なんだか妙にぴったりだ。
このトンボの先祖は、この場所にとまり続けてきたのだろう。一夏の陣地を守る睨みを効かせる儀式をするために、来年もその先も彼の子孫たちは、夏の初めにここを目指して飛んでくるはずだ。
「君はすごいな」私はそんなトンボの遺伝子に敬意を込めて、手をこめかみに当て、きちっとした敬礼をした。
トンボは動体視力がとても良いと聞いたことがある。動きをスローモーションのように、捉える能力があるらしい。
トンボの眼は、私の動きを察知したのか、まるで承知したと言うように、
くるりと身をひるがえして、初夏の空に高く飛び去っていった。

 

著者紹介

蕎麦料理研究家 永山塾主宰
永山 寛康

<プロフィール>
1957年(昭和32年)生まれ。
21歳でそば打ちの世界に入る。名人と名高い片倉康雄・英晴父子に師事し、そば打ちの基本を学ぶ。『西神田 一茶庵』『日本橋三越 一茶庵』に従事した後、『立川 一茶庵』で店長を務める。その後、手打ちそば教室の主任講師などを努め、2004年より「永山塾」を開塾。長年研鑚を積んだそば技術やそば料理の技術を多くの人に教える。

感情豊かなそば打ちやそば料理の指導に、プロアマ問わずファンは多い。近年はそば関連企業と連携して、開業希望者やそば店等への技術指導にも活躍中。

 

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